LF対談

21世紀に向かって走りだした千里ライフサイエンス振興財団 No.1(1990.12)

国立民族学博物館顧問、名誉教授
梅棹忠夫 氏

財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岡田善雄 理事長

産・学・官のフェイス・トゥ・フェイスの交流が
ライフサイエンスの無限の可能性を生み出す

ライフサイエンスを中心に、21世紀をリードする学術・文化都市として期待される千里。
その千里に産声をあげた財団に、今何が期待されているのか。
第1回目の対談では、ライフサイエンスの草分け的存在である民族学者の梅棹忠夫氏を迎え、
岡田善雄財団理事長とともに財団設立の背景を鋭く分析しながら、
ライフサイエンスを育む理想的土壌づくりの可能性を探ってみました。

驚くべき頭脳集積都市・千里、まずはその誕生物語

梅棹 千里という地は、私には因縁の深いところでしてね。京都から家内の実家のある神戸へ行くのに西国街道をよく往復しました。竹薮と雑木林しかなかった頃です。大阪府の企業局がここをニュータウンにしようとしたとき、私はその計画段階から知っていました。

岡田 その当時は、先生は大阪市立大学におられたんですね。

梅棹 そう、ずいぶん昔の話です。ニュータウンの造成が始まったのは1960年頃ですから。このニュータウンづくりは北摂に大中心都市をつくるべく始まったもので、単なる大阪のベッドタウンという思想ではなかったんです。つまり、副都心ではなく、独立都市です。私は今や近畿は京阪神千の4都だと言っているんですが、ここはそういう性格のところなんです。万博のためにここをつくったと誤解している人も多いようですが、決してそうではない。

岡田 阪大では微生物病研究所が最初に移ってきたんですが、その当時は、雨が降ったらドロンコになるし、昼飯を食べに行くところもないしね。しょうがないから空港まで食べに行ってました(笑)。それが今では、各種研究機関が集積する地として東京の筑波と並び称せられるほどになった。

梅棹 現実の成果としては、東西に驚くべき2つの頭脳集積点ができたわけです。アメリカのマサチューセッツと南カリフォルニアという頭脳の2大集積点に匹敵するものです。ただ千里と筑波の違いというのは、筑波は東京都の疎開のためにつくられたもので、人があまり住んでいない。しかし千里の場合は、もともと住宅で始まっていますから定着者が多いんですよ。私がここへ移ってきたのは、国立民族学博物館を引き受けた最初の年でした。住んでみて初めてわかったんですが、日本の2大自動車道がここでクロスしていて、インターチェンジがいくつもある。さらに国際空港がある。つまりここからだと、日本全国ほとんどの大都市へ1〜2時間で行けるんです。住んでみれば、ここは日本のへソだったわけです。そういうことを私があんまり言ったもので新聞が取り上げ、それが千里界隈の地価を高騰させる一因になったとか(笑)。

フレキシビリティがライフサイエンスを育んだ

岡田 先生はもともと動物生態学がご専門でいらっしゃるわけですが、ずいぶん早い時期からライフそのものの分野でご活躍なさっていらっしゃる。まさにライフサイエンスのハシリだとお見受けしておるんですが、どんなプロセスを経てこうなられたのでしょうか。

梅棹 終戦の2年くらい前、学術探検隊に加わってモンゴルに行きましたが、そこで牧畜のエコロジーを研究するうちに、家畜より人間のほうが面白そうだということになり、ズルズルと民族学のほうへ変わったというわけです。

岡田 当時はまだ、その分野はちゃんと確立されていなかったのでは?

梅棹 ですから、学位は本来の、動物生態学のほうでいただいています。学位論文は「オタマジャクシの数理社会学」といって数学を導入したものでしたから、動物学教室では審査できず、数学の教授にお願いしたという、いわくつきのものです。なぜ数学を導入できたかと言いますと、他の科でよく数学や植物の講義を聴講していたからなんですね。当時の理学部は一応細分化はされていましたが、垣根が低くて自由に乗り越えられたんです。

岡田 昔は「好きだ」というのが一番のベースでしたから、それだけ自由だったんですね。そもそも生物学や動物学というのは絶対に儲かることはない分野でしたから、純粋に趣味でやれたんですね。
しかし今は、サイエンスの相当部分が社会に直結するという形になり、しかもサイエンティストの数が増えていますから、好きでノンプロフィットではどうにもならない。対社会的に生きていく方便として、好き嫌いとは違う次元で判断せざるをえなくなっています。その意味では、今の若い人はかわいそうです。まあ各人で、好きなところをちょっと残して、あとはデューティとして割り切るという工夫をしなきゃならないんでしょうね。

梅棹 私らは、初めから好きで学問やってきましたからね。私が動物学教室に入ったときは、募集人員5人に対して入学者は私1人。当然、首席で卒業しました(笑)。

大学とは本来、功利的ベクトルを否定するところ

岡田 京大というところは、いかにもお公卿さん的だと思うんですよ。日本の大学では存在しえないような、つまりプロフィットに結びつかないような非常にユニークな分野でもずっとキープできている。

梅棹 たとえば文学部にサンスクリット関係だけでも、梵文学、仏教学、インド哲学の3つがあります。これなんか常識では考えられませんね。絶対就職口がないんだから(笑)。

岡田 京大とのコントラストからいくと、対極にあるのは阪大でしょうね。京大、東大は日本の顔で、ある意味では寝ていても生きてゆける。一方、阪大は昭和初期の経済恐慌の余韻がまだ残っている頃、地元の熱意で創立され、その資金のほとんどが大阪府と大阪財界で賄われたという特異な歴史を担っています。大学の人たちも、何か自分たちで工夫をしていかなければ生きてゆけないと思っている、という面白い旧帝大です。活性化の工夫を自主的にやっていく気風が今も続いています。社会との連動性が特徴です。

梅棹 私が最初に勤めました大阪市立大学は、気風からいえば京大的でしたね。それでも市大から京大に帰ったときは、ほんとに自由を満喫しました。人文科学研究所の社会人類学の助教授として帰ったんですが、この研究所は不思議なところでね、何をやってもいいと言うんです。のびのびと学問しましたねえ。

岡田 その人を信頼して自由に学問させてくれ、結果は問わないというのが、良き時代の大学の姿だった。その存続をどう工夫するかが、現在問われているのでしょう。

 

梅棹忠夫 氏

梅棹忠夫 氏

国立民族学博物館顧問、名誉教授

1920年、京都府生まれ。43年京都帝国大学理学部卒業後、大阪市立大学助教授、京都大学人文科学研究所助教授・教授を経て、74年国立民族学博物館長。93年より同館顧問。動物生態学から民族学に転じ、57年『文明の生態史観』が反響を呼ぶ。以後、実証的な比較文明学の確立に尽力。『梅棹忠夫著作集』全15巻など著書多数。受賞は紫綬褒章、国際交流基金賞、文化功労者、文化勲章ほか。

人材疎外の一番の被害者、やる気ある若者を救え

岡田 この民族学博物館ですが、国立でありながらこれほどのことができるのかと、いつもびっくりするんですが。

梅棹 この建物は完全なインテリジェントビルになっていて、コンピュータの端末は定員の数より多いんです。コンピュータリゼーションは最初から予想していましたので、積極的に導入してきました。完成すると100万冊を収納できる民族学の専門図書館もすべてコンピュータで管理されます。

岡田 国立大学の図書館も今は光ファイバーでやっています。ところが、一般の図書館はガンとして受け付けない。結局予算措置が全部縦割りでいってるからです。たとえば文部省系列と通産省がらみ、それらの横つなぎを省レベルでOKとろうと思ったら、これはもうたいへん難しい。だから現場の末端レベルで工夫しなければならない。うまくいくかどうかは、この工夫しだいで決まると思うんです。
千里ライフサイエンスに対する大学側の期待は、一つにはどこかに風穴を見つけ、そこで工夫することによって若いやる気のある連中をエンカレッジしてほしい、ということがあるんですね。

梅棹 大学には人材が豊富にある。ところが組織が悪い。その人材を大学のワクから救いだし、別にオーガナイズすることを考える必要があります。各種のシンクタンクがいい例です。新しい組織をつくって研究者を自由に使って研究し、それが終われば解散する。そういう方法を考えないとね。

岡田 しかし、明治からのパターンで、動きがとれない。

梅棹 タコツボ化が進んでいますね。垣根を越えた自由な交流がほとんどできていない。学者の生活保障が行き届いて安定していることも、その一因かもしれませんが。

岡田 それだけ平和ということなんでしょうが、学問が好きで意欲的な人をスポイルする状況にあるというのは大問題です。大学だけじゃなく企業にもたくさんあります。たとえば特許申請ですが、つまらないことにエネルギーを使わざるをえないという状況があるわけです。この問題も千里ライフサイエンスあたりで、それぞれの専門家や現場の人を集めてなんとか改善したいと思いますね。
先日、利根川(進)君と話したんですが、若い人がスポイルされる方向にシステムが動いている状況に対して彼が一生懸命主張したのは、6年間自由に実験させるアシスタントプロフェッサー制度をつくれ、ということなんです。わかってはいることですが、先生がここ(国立民族学博物館)をつくられたときに準備されたのと同等の大きな準備がないと、総論やられても手も足も出んのですなあ(笑)。

研究者よ、垣根を越えて外に出よう

梅棹 去年から総合研究大学院大学をやりだしたら、次から次と煩瑣なことがいっぱい出てきて困っておるんですよ。大学という形をとっているからには、教授会や評議会をつくらなきゃいけないとかね。

岡田 民主主義は会議が好きですからね(笑)。会議をすることで一人の人間が責任をとらなくてもすむんですよ。

梅棹 それも江戸時代の幕藩体制以来の伝統です。

岡田 (千里ライフサイエンスでは)責任者がはっきりするような形でやりたいんですけどね。責任もとるかわりに自分の意志で何かをやれる、そんな権限を持つ責任者という意味ですね。
アメリカあたりではディーンとかね、その対応をどんどんやることで大学に寄付がくる。そうすると新しいプロジェクトを自分で企画してやれるわけです。日本でも各大学の学長とか学部長とかにそういう権限を与えたら、もっとがんばれる人も出てくるはずです。

梅棹 千里ライフサイエンスの活動で、いずれ大学外で仕事が始められるようになります。それはぜひ、やってくださいよ。

岡田 建物が建つのは2年先ですが、産・学・官のフェイス・トゥ・フェイスの交流の場として20階と21階につくるサロンには、私自身非常にこだわっていましてね。どういう形にするか、だいたいのパターン化はできているんですが、オープンまでにじっくり練って、ぜひとも成功させたいと思っております。

梅棹 北摂7市3町の知識人たちが垣根を越えた交流を図ろうという目的で、岡田先生も含めた約80人で『千里眼』という同人誌を発行していますが、これは役に立つのではないかと思います。結局、人ですな。人を捉まえて、フルに力を発揮してもらうようなシステムをつくることです。

岡田 それが一番難しいんですねえ(笑)。ほんとに今日は長時間、ありがとうございました。

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