LF対談
脳の不思議、脳研究の面白さ No.22(1997.4)
京都大学大学院医学研究科教授
中西重忠 氏
財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岡田善雄 理事長
視覚系は“暗さ”も情報としている
岡田 この度は日本学士院賞・恩賜賞の受賞、おめでとうございます。中西先生のお仕事はどれも面白いんですが、今日は一つだけでも説明してもらえればと思っていたんですが。
中西 僕らの脳研究というのはいろいろな分野がありますが、僕が今、面白い問題と思っているのは生体は外部の情報をどう処理しているかなんです。外部情報を処理する機構としては免疫系と神経系があって、免疫系は抗原に対して遺伝子が変化することによって対応する。それに対して神経系はどう対応しているか。一時期は脳の遺伝子も変化すると言われたけれど、どうもそうではない。なぜこんなことを言うかというと、免疫系は遺伝子が変化することをモノのレベルで見事に解析したんです。
岡田 そうですね。
中西 僕は基本的には生化学者であってモノのレベルで理解したいという態度なので、じゃあ神経系ではどうかというと、結局、神経系のうまいネットワークによって外部情報を処理しているのではないか。そこから僕らの研究はスタートして、視覚系では一番単純な情報といえる「明るさ」と「暗さ」をどう識別しているかという問題で、ある面白さが出てきたんです。
岡田 あれは結局、明暗のコントラストというふうに考えたらいいのですか。
中西 そうですね。網膜では、神経細胞が層構造になっていて、二番目の細胞には明るさと暗さに反応する二種類の細胞があります。脳の中では最終的に形や動き、色などが認識されるわけですけど、まず初めにアナログの外部情報をデジタルに変換する必要があり、光の基本的な構成は明るさと暗さですから、光に反応して二番目の細胞が、明るさと暗さという基本的な素子に分けているんです。私たちの研究は、明るさと暗さに対する反応が二種類のグルタミン酸受容体(レセプター)によって決定されていることを明らかにしたわけです。
岡田 不思議なもんですね。
中西 外部情報を素子に分けておいて、次に神経ネットワークの中で素子がしだいに統合され、点が線になり、線が面になり、最終的にはモノの形とか動き、色などがわかるわけです。
岡田 まあ、明るさのほうは普通わかりますが、暗さというのは非常に面白いですね。
中西 確かに面白いですね。僕らも明るさに対する反応を決定している受容体の遺伝子をなくしたマウスで実験したとき、このマウスは見る力がなくなるだろうと考えていました。
岡田 まずそうでしょうね(笑)。
中西 そしたら、光に対して反応するんですよ。最初は測定方法が悪いんじゃないか、音に反応してるんじゃないかなど心配していろいろ工夫をしたんですが、やはり明るさに対する反応がなくなっても、光に対して反応することができる。ということは、暗さが情報になっているとしか考えられない。よく考えれば、明るさと暗さというのはコントラストとして大切なわけですが、単純に考えたときは実験を間違ったと思いました。大阪大学と兵庫医大の先生と組んで、兵庫医大まで行って何日もかけてやったんですけど、最初はめちゃめちゃ不思議でしたね。
岡田 そうですか。先生は他にもいろいろ面白いお仕事をされていますが、それらは具体的なモノから始まって末広がりになっています。もともと基礎研究者になったのには何か理由があったんですか。
中西 親戚にコロンビア大学教授の化学者がいて、僕が中学の頃は名古屋大学の助教授だったんですが、よく交流がありまして、なんとなく基礎研究に憧れがあったんですね。それで、京大の医学部に入っても医者にはならずに基礎のほうに進んだんです。
岡田 先生のクラスには基礎研究をやりたいという人はたくさんいたんですか。
中西 幸いなことに基礎をやりたいというのが七、八人いました。みんな仲が良くて、僕にとってはいい学年だったと思います。
岡田 僕は昭和27年の卒業なんですけど、あの当時、基礎に進んだらみんなにバカにされましてね。
中西 どうしてですか。
岡田 どうせ食えんやないかと(笑)。
中西 先生の頃だと、そうかもしれませんね。
岡田 まあ、食えん時代ですからね。あの頃、研究をしながら、基礎というのは日本ではオレの時代で終わりなのかなと思ってたんですが、先生みたいな人が出てきた。いやー、先生の仕事はすごいわ。
中西 先生からそう言っていただけると大変光栄です。
脳は日本の研究風土に合った分野?
岡田 日本の脳研究のこれからの見通しというか、希望みたいなものをお話いただけませんか。
中西 日本では、分子のレベルで攻めることができる神経発生とか細胞内情報伝達というのはよくやられています。それから伝統的に生理学でもいい研究があります。ただ、やっぱりアメリカがものすごくやってますからね。
岡田 そうでしょうね。
中西 たとえば、アメリカの神経科学の学会の参加者は今年2万人を超えたといいます。それに対して、日本独自のものを出すというのはよっぽど頑張らないときついでしょうね。
岡田 ある意味で、2万人も集まる学会というのが全体の中心となって、それぞれの地域でそのバックグラウンドをやっていくという可能性があるかもしれませんね。
中西 もう絶対にありますね。たとえば神経発生は特にアメリカが強いんですけど、強いところはそれをさらに進め、なかなか太刀打ちできません。でも、幸いなことに脳研究は、その間がまた大事なんです。
岡田 そっちのほうが面白い(笑)。
中西 たとえば、電気生理学と分子生物学を結びつけた研究が谷間みたいにスポーンと残ってるんですよ。だから、自分はどの分野が面白いかをよく考えてやったら、意外と大きなところが残っている。僕が視覚系でやった研究も、実は古くから視覚をやっている人はいるけど、分子を使ってこの分野の解析を進めたのは僕らが初めてだったんです。
岡田 そうですか。しかし、共同研究させていただいたところはずいぶん得したと思うな。
中西 それはお互いさまですから。僕らのほうも電気生理学の面ではものすごく助けてもらいました。面白いのは、それぞれ違った分野で考えていたことが、一緒にやるとはっきりした形で答えが出てくる。そのときの両方の喜びでしょうね。
岡田 その条件としては脳研究が一番あるかもしれませんね。
中西 あると思いますよ。たとえば、ガン研究では細胞レベルで発ガン機構をやれば非常に面白いことができる。だから、それだけをみんなやります。でも、脳研究は一つの神経細胞をいくら調べても、基本的には脳全体のことはわからないわけでしょう(笑)。ネットワークの中における神経細胞の働きが知りたいのであって、そのためには自分たちのテクニックだけで解析できないのは初めからわかっていることですからね。
岡田 そういう意味での日本の在りようというのは世界の中でありますか。
中西 日本のほうがやりやすい面がありますね。アメリカは、一流の電気生理学者が言ってたのですが、同じ教室に分子生物学の研究者を呼んでも、自分のことをやって協力してくれんと言うんですよ。要するに彼らは独立性が高いですからね。僕は共同研究が多いんですけど、アメリカ人が「中西、おまえどうやってあんなうまい組織をつくるんや」と訊くんですよ。日本の場合は、お互いにきちんとした理解があれば上手くできますからね。ある面では、脳研究は、日本のサイエンスの雰囲気にぴったりの分野だと思います。
岡田 そうですか。種はいっぱいあるわけですか。
中西 まだ本当の意味で始まったところで、どんな実が結ぶかもわからない分野ですからね。
岡田 しかし、一番先端を行ってる土俵に入って、一番になるのは難しいでしょうね。
中西 そうですね。僕がそれなりに国際的に認められているとすると、僕らなりに独自なところを開いているからだと思うんですけど、そうした独自性を出していけるか。
岡田 やっぱり自分がないといけませんね。
中西 特にまだ何を対象にしたらいいか、いっぱい種があるときには、自分たち独自のものをともかくやってみる。たとえば、今は記憶というと脳の中の海馬体に行ってしまうけど、たとえば臭いの記憶のように、もっと解析しやすいものがあるかもしれない。それが日本でのやり方でしょうし、願わくばそこから一つの理論が生まれればいいんですが。
岡田 中西先生が、その範を垂れてくださっているわけですね。何か日本の良さを出していければいいですね。
中西重忠 氏
京都大学大学院医学研究科教授
1942年、岐阜県生まれ。66年京都大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了。71〜74年米国国立衛生研究所癌研究所客員研究員。74年京都大学医学部助教授、81年教授。05年(財)大阪バイオサイエンス研究所所長。専門分野は神経科学、分子生物学、生化学。脳神経機能の分子メカニズムの解明を進める。米国科学アカデミー外国人会員。受賞は慶應医学賞、日本学士院賞・恩賜賞ほか。
バックアップ・システムの重要性が増す
中西 あと問題は、そういう研究に対する支援的な要素ですね。たとえば、いろんなミュータント(突然変異)をどこが保存するかとか、集積されたデータをどう利用しやすくするかとか、最近アメリカでは支援体制の確立を積極的に行っています。
岡田 日本の非常に弱いところですね。ノックアウトして特定の遺伝子をなくした動物をどこでどう保存するかということでも、日本はまだ格好つかないですからね。
中西 それに今、大きな問題になってるのが、ノックアウトしたマウスの種類によって実験結果が全然違うことなんですよ。
岡田 どういうことですか。
中西 たとえば、同じ遺伝子なのに記憶に関係するという結果と関係しないという結果が出たんです。初めはどちらかが間違ってるとみんな思ってたんですけど、実は使ったマウスの遺伝的背景の違い、要するにノックアウトマウスをどのマウスの種で作ったかによって違うんです。
岡田 結果が両方出るとなると、今までの自然科学とは……。
中西 そうですよ。サイエンスじゃなくなってくるんですよ。それで非常に問題になってきて、そうすると一つはバックグラウンドをはっきりさせましょう、もう一つは比較できるために使うマウスの種類を一定にしようという、いわゆるマウスのスタンダリゼーション(規範)の方向が検討されているわけです。そうしないと客観的な評価ができないですからね。
岡田 そうですか。
中西 それで、アメリカではジャクソン研究所とかが、そういう分野を全面的にサポートする動きが出てきているんです。そういうのは日本では弱いですよね。
岡田 今、厚生省に保存関係のもの、できればノックアウトした動物とかを受精卵で保存するセンターみたいなものを作れないかという話をしてるんですよ。
中西 保存はね、先生。去年の暮れまではジャクソン研究所がノックアウトしたものは全部引き受けてたんですよ。それが今年の1月から保存したいものしか受け取らなくなった。そうすると、日本で作ったものは日本で保存する責任が出てきたんです。
岡田 いろんなバックアップ・システムがほんとないので、その話になると、どうしていいやらシュンとなるんですけど(笑)、今のところは何とかやりたいんだけど薄氷を踏む思いで。
中西 先生、そのうちこの問題をしっかりしないと論文も取らなくなると思います。日本でもきちんと対応しなければならないでしょうね。
岡田 きつい世の中になってきたんですな。
中西 なってきました。どうしても脳研究はアメリカが中心ですから、アメリカでよく使われているものが中心になるという傾向になります。しかし、一番の大切な問題は結果が再現でき、研究者間で比較検討できることですから、マウスの問題は避けて通れない問題です。
岡田 実はこの北摂地区で造成が始まっている国際文化公園都市にライフサイエンスパークをつくり、ここにバックアップ・システム、たとえば保存関係の組織をつくれないかと今やってるんですけどね。そういう問題が出てくると少しはやりやすくなるかもしれませんね。
中西 日本でも今ものすごくノックアウトやってますからね。あれをどう保存するか、大切だと思いますよ。
岡田 でも、まだ五里霧中ですがね。退官後、こんなことをやっているので中西先生の話を聞くとうれしくなりますよ。実験ってええなあと。面白くて仕方がないでしょう。
中西 面白いですね。ただ、日本の場合、遺伝子をとるとすぐにノックアウトに行ってしまって、その間にある重要な研究を抜かしてしまう傾向も出つつあります。医学・生物学の問題はもともと生体の現象があり、それを理解するために細胞・組織レベルの研究を行い、遺伝子のレベルに入って再びノックアウトなどの技術を使って生体に戻ってくるものだと思います。しかし、遺伝子がとれると十分な論理もなくノックアウトでやろうとする。今いった循環というのが常に大事で、そこにしか独自性は出てこない。ノックアウトが非常に有効な手段だけに今の若い連中がその技術だけに陥っていないか心配ですね。
岡田 最後にすばらしいコメントをいただきました。今日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。
EYES
「脳科学の時代」プログラム
日本の脳研究を推進する20年長期計画
「脳」は人類にとって最後に残されたフロンティアとも言われます。いまだそのメカニズムの多くが解明されておらず、世界中で盛んに研究が行われているからです。アメリカでは、90年代を「脳の10年」として大規模な研究プロジェクトが始まっていますし、欧州でも同じような動きが起こっています。
これらの欧米の動きに呼応し、日本でも昨年7月、科学技術庁の私的懇談会「脳科学の推進に関する研究会」(座長:伊藤正男氏・日本学術会議会長)が、日本の脳科学の研究推進計画を発表しました。「脳科学の時代」プログラムと称される、国全体の取り組みとして脳研究を20年の長期計画によって推進する計画です。この中では脳研究を「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」という3つの領域に分けて、それぞれ目標を定めています。
①「脳を知る」は脳の働きの解明を目標とし、具体的には記憶、思考などの高次精神機構の解明をめざします。
②「脳を守る」は脳の病気の克服を目標とし、具体的にはアルツハイマー病などの多くの神経・精神疾患の治療法や予防法の開発と、脳の老化の制御をめざします。
③「脳を創る」は脳型コンピュータの開発を目標とし、人の意図を理解して行動するロボットの開発などをめざします。
国全体の取り組みとしては、欧米に立ち遅れていた日本ですが、個人レベルではこれまでにも独創的な研究成果をあげてきました。今回のLF対談に登場していただいた中西重忠氏(京都大学教授)もその一人です。中西氏は今年3月に「神経伝達の分子メカニズムに関する研究」によって恩賜賞・日本学士院賞を受賞されました。具体的には、①神経ペプチド・タキキニンの生成のメカニズムの解明、②受容体およびイオン・チャネルの新しいクローニング法の確立とタキキニン受容体と受容機構の解明、③神経の興奮を伝達するグルタミン酸受容体の解明、④グルタミン酸受容体を介した情報識別のメカニズムの解明、の研究成果が評価されました。たとえば④では、視覚において明暗の識別が2種類のグルタミン酸受容体の使い分けによってなされていることが分子レベルで解明されました。
脳の問題は私たち一人ひとりに関わっています。記憶や意識といった人間特有の働きはもとより、高齢化社会を迎えて痴呆症など切実な問題も出てきています。そのため、今後の脳研究の飛躍が切に望まれているのです。