LF対談

いのちに関わる科学と宗教 No.29(1999.9)

大阪大学名誉教授
泉 美治 氏

財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岡田善雄 理事長

脳科学と仏教の唯識

岡田 泉先生はタンパク質研究の泰斗でいらっしゃる一方、仏教に深い造詣をもっていらっしゃる。どんなきっかけがあったのですか。

最初はひやかしからですわ。昭和22年頃、友達が禅会を開くというのでね。

岡田 終戦後の精神的な混乱期ですね。

そんな意味はなかったと思います。その禅会に100人集める予定だったんですが集まらず、頭数にきてくれんかと言われましてな。その頃、武田化学薬品、今の和光純薬にいまして、労働組合を結成するちゅうんでマルクス・レーニン主義にだいぶかぶれていましたのや。そのようなことで、その禅会で坊さんの話をことごとく批判したんですわ。唯物論的にね。お経なんて何の意味もわからん、もっとわかりやすうやれと言ったら、その坊さんも相当なもんやった。なんぼあんたらに説明したところでわかるような代物ではない、何を読んでもかまわんが、同じわからんもんなら、有り難いといわれるお経を読んだほうがましやろとね。そして帰りがけに、もうちょっとひやかしにおいで、あんた100人の中で一番見込みあるで、と言われてね。

岡田 それがスタートですか。おいくつぐらいのとき。

23か24歳の頃です。そのようなことで通ううちに、どうも「覚」というものは、仕事で新しいものを見つける、いわゆる発見の瞬間と似とるんじゃないかと思うようになり、興味を持ちはじめたんです。それからいろいろあって、ご承知のように阪大の蛋白質研究所で仕事をするようになったんですが、私は大学を出ておらんし、会社育ちやし、薬学やし、まわりの人と全部違いますわな。いろいろ考えましたが、理学研究というものは哲学がベースにないといけないという結論を出し、成り行きとして仏教哲学に基礎を置くことにしましてね、仏教の哲学を真剣に勉強しはじめたんです。

岡田 いやー面白いお話ですね。

大学紛争が終わった時分に、その偉い坊さんが急に亡くなったんです。禅会をどうしようかと頭を痛めているときに、東大のインド哲学を出て永平寺で修行した井上哲也という坊さんがおることを、紛争中に懇意になった高崎直道さん(現、東大名誉教授)に紹介してもろうたんです。今になって考えると、得がたいなかなかの坊さんでしたな。倶舎、唯識といったような仏教の哲学を一から教えてもらったんです。この出会いがなかったら、唯識でもこうはわからなかったでしょうな。

岡田 唯識でいう前五識、第六識とかの階層性は、今の脳生理学のほうからもちゃんとその通りになってますね。

脳のことやから、あれだけ似たことを考えられたんでしょうな。

岡田 あれをとにかく抽象的に考えたわけでしょ。すごいものです。

お釈迦さんが見つけた仏教の真理は縁起の法ですわ。すべてのものは縁の上にあるとね。ところが、仏教の本をいろいろ見ましても、縁起の法についてきっちり書いてあるのに当たったことはまだありませんな。禅会には自然科学をやっている人が数人いますので、井上老師と言葉を交わすことによって、結果的に縁や唯識などについて独特の理解をすることになったんです。それでやっと、縁というものがどういうものかということもわかったんです。
唯識についてはね、それが複雑難解な哲学になっている原因に三つあることがわかったんです。その一つが眼光紙背に徹するという考え方ですわ。目から眼光という特別の光が出て、それが届いた先端に知覚するものがあると昔の人は本気で考えていたんですな。

岡田 とにかく意思があるわけね、最初に。

そこが泣き所になって、唯識は現実の視覚に論理を合わすために、錯雑難解な論理を展開しているんですな。
次は識についてです。無理もないことですが、唯識では認識機能と認識行為を分離しておらんということです。三番目は記憶についてです。記憶には感覚記憶、短期記憶、長期記憶と別々の機能を持った記憶があることは、今では明らかになっていますが、唯識ではどれもこれも長期記憶と同じような取り扱いをしているのです。ここでも現実と合わすために、錯雑難解な取り扱いをして論理を無理に合わそうとしているのです。この現実との食い違いを、大脳生理学や情報科学の知識にしたがって正してゆくと、唯識は単純明快で論理的な哲学になるんですな。このことを言うのやが、なかなか文科系の人にはわかりにくいようでね。

岡田 なんか私たちには非常に入り込みやすそうですね。そういう勉強会をどれくらい続けておられたんですか。

井上老師は一昨年亡くなったが、その間、25、26年やろね。結論が出てみたら、科学的に当たり前のことを唯識は言うとるのですわな。こんなことで、自然科学を基礎にして、人間の自我の醜さを自覚させる哲学として唯識は最高やと思うんです。

科学的な立場からのオープンな議論が必要

岡田 今、「クローン問題」と「ヒト胚」という、生命倫理に直結する二つの委員会の世話をさせられていましてね。クローン人間の生産規制のほうは当然ながら異論は出ませんが、ヒト卵や胚を産婦人科領域の生殖医学を越えて研究対象にしてよいかどうかは、議論百出の状況で、結論が出せれるものかどうか、ゴールが見えず頭を抱えています。

科学は、本来、善なものでも悪なものでもないんで、それは仏教では「無記」という性質のものですな。それが善になるか、悪になるかは、それにかかわる人間の心にかかっているということですわ。ヒトの受精卵を取り扱うことでも、取り扱う人が何をめざしているかが問題で、一概に取り扱うことが悪いとか善いとか言えるものではありません。今の風潮で、私が一番恐れていることの一つは、科学を取り扱う人の心の議論を忘れて、表面的なことで科学を否定したり、絶対視したりすることです。生命にかかわる科学は、誰にも直接関係があることから、とかく感情論が先立ち、それが怖いですな。愛の安売りもその一つですわ。

岡田 生命を対象とする研究分野が、ヒトそのものに無限接近したときに必ず起こる一つの宿命だと思うんですけど、それが今はっきりと出てきているわけなんですね。

私たちは科学者やから、当然、科学的な立場で完結した話をしようとしますわな。先に話しましたように科学は無記なものですから、良心的に話そうとすれば、人権とか愛とか、人間臭いことを離れて話をしなければ、完結した話をすることはできませんわな。ところが現実は、たとえば人権とか愛といったような問題が話の途中に入ってきて、科学の現実を話そうとしても話が制約され、いびつな情報が世間に流れているのが現実でしょう。科学的立場から良心的な発言をすることができましたら、世間の考えもまた変わるのではないですか。
完結した情報をもとに宗教家や哲学者などが、科学にかかわる者の守るべきこと、世情の赴くべき方向、真の愛や慈悲のあり方が示されればよいのですがね。現実は宗教的裏づけのない愛や、世情追随の意見が一部の宗教家から出ているのが実情でしょう。結局、興味本位の商業主義、それに乗っている人たちにあおられているのですよ。

岡田 いやね、一つの事象がパッと出てくると、そのポジティブなところだけが強調される。そのポジティブな面との対応の中で、また生命倫理とかやられるわけなんだけど、現実的にどういう怖さがあってとか、なかなかそこまでは。

言えんのですよ。

岡田 そのあたりの問題は外れてしまうんですね。

外れるというより、言えんのですよ。はっきりと言う機会が失われているのです。本来はすべてを踏まえて宗教家や哲学者とか、そういう方面から意見があるべきなのに、それがあまりない状態でしょう。

岡田 医学の基本的な対象は人であって、とにかく病気を治してできるだけ長生きさせる、という方向性でやってきたわけでしょ。ところが、どうもそういうベースだけじゃ難しいというのが片一方にあってね。長生きするようになったと、それでももっと長生きさせにゃならん、それは果たして意味があるのかということへの対応もあって。しかし、医学からいうと延ばさんといかんわけで。

それしかないんや。それにブレーキをかけるのが宗教や哲学の役割だと思うんです。それがないんや。アクセル踏みっぱなしですがな。

岡田 長生きするようにアクセルを踏み続ける作業のみが医学の在りようだったときから少し時代が動いて、寿命を意識する時代にきたかとも思いますけど。

いのちの問題は、結局のところ個人個人の考えによって制御されるべきものでしょうが、仏教では愛は無明の最たるもの、人間の煩悩の根源的なものになっとるんです。愛は自分の心を満足させるものとしてな。自我を超えた慈悲の立場とは違うのです。キリスト教の愛も、宗教的にとことんゆけば慈悲と変わらんのかもしれませんがね。

岡田 きついですね。だけどそのとおりでしょうね。

 

泉 美治 氏

泉 美治 氏

大阪大学名誉教授

1921年、兵庫県生まれ。41年大阪薬学専門学校卒業。武田化学薬品(株)(現・和光純薬工業)、日の出製薬(株)を経て、56年大阪大学理学部助手。同大学蛋白質研究所助手、助教授を経て65年教授、82年所長。85年退官、大阪学院大学教授。94年退職。専門分野は有機合成化学、触媒化学。「現代における宗教の役割研究会(コルモス)」理事などを歴任。著書は『科学者の説く仏教とその哲学』など。

「いのち」と生命現象を分けて考える

岡田 とにかくES細胞(胚性幹細胞)という、いろんなものに分化できる万能性の細胞がヒトでもとれたよという話が出てきて、それを利用して必要な細胞を患者に導入すれば臓器移植より温和じゃないかと。けれども、ES細胞をとるには受精卵をハンドリングせなあかん。それがいいのか悪いのか。ヨーロッパでは全部だめということになっているようです。卵子に精子が受精したとたんに変わるわけなんですね。それまでは物質なんだけど、受精すると生命体で手も足も出んようになる。

そうなら、人工流産も否定せにゃならん。

岡田 当然ながら、バイオの研究当事者の中にも、それ以外の委員の中にも、研究材料完全否定と部分肯定の方が両方おられます。

一見、関連があるように見えて次元が異なる問題がからみ合うのが、生命にかかわる議論の特徴ではないでしょうかね。それを整理しながら議論をせんことには、いつまでやっても堂々めぐりになりますやろな。それから倫理は社会的な生物、ヒトが社会生活を送るために必要な約束事やから、教育のあるなし、老若によって認識の違うものであってもだめでしょうな。平たく言うたら、半ば本能的に納得できるもんでなければならんでしょうな。もちろん、ES細胞の取り扱いについての倫理の基本と、脳死にかかわる臓器移植の問題についての基本が違うような、場当たりなもんであってもだめですわな。生命倫理として一貫性がなければ倫理と言えませんわ。
そこでね、生命現象からいう、科学のいう生命と、抽象的存在である「いのち」をまず分けて考えないかんと思いますな。本能的にわかるのは「いのち」ですから、生命倫理とは「いのち」の尊厳性を守ることについての約束事ということになりますやろ。説明なしで、受精卵に「いのち」があると常識的に思いますやろか。あるいは人格があると思いますやろか。人が意識する「いのち」は主観的なもので、科学的なものではないのです。「いのち」、そこに人格のようなものを感じる思いを大切にすべきではないでしょうか。ということは、母親が胎動を感じるほどに、あるいは説明がなくとも生き物と思うほどに育った胎児には「いのち」があると感じることは確かですわな。そのへんに一つの目安があるのと違いますか。
科学的立場で考える生命と「いのち」の違いについて忘れてはならないことがあります。たとえば、脳死状態にある人の科学的に見る生命は当人だけの生命ですが、「いのち」は主観的なものやから、当人だけのものではありません。それは、母ちゃんの「父ちゃんいのち」でもあり、息子のそれでもあるということです。これを認めるところに、生命を尊ぶ心の原点があるのではないでしょうか。科学的な考えでは、それをともすれば忘れているのではないでしょうか。生命の尊さの原点を守るための自律的な社会的取り決め、それが生命倫理であることを考えますと、これはたいへんに大切なことなんです。そしてそれを、他律的な取り決めにしたものが法律で、取り決めに客観性を持たすために、はじめて科学が関与するのではないでしょうかね。科学や実利先行では場当たりになり、何も決まらないでしょうな。
こう考えてきますと、倫理的に問題のある不自然な人間をつくる目的のない、しかも「いのち」を意識しない段階のものを取り扱う研究に倫理的問題はないと思いますな。そして臓器移植と関係する脳死者の取り扱いは、近親者の同意を必要とする日本の現行規定がよいのではないでしょうか。もし、個体としての生命現象の停止をもって死としますと、ES細胞も考えようによっては個体としての資格を持っていますから、それを使う研究はできません。

岡田 そういうことですね。かつて、いろんな臓器移植が現実的に動きだしたとき、僕が一番気になったのは、人の臓器が売買の対象になる可能性があるということでした。それを抑えることができ、なおかつインターナショナルに通用する工夫がないとえらいことになる。このES細胞は有用で、今までにない新しい医学領域を開くものかもしれないと思っていますが、ヒト卵が売買の対象にならない仕組みがつくれるかどうか、気になっているところです。

ESにしろ体細胞クローンにしろ、それらによって分化の研究などを進歩させ、人の臓器の売買が経済的意味をなくすることが、法律よりも何よりも臓器売買の危険性を排除する最善の道ではないですやろか。素人にはわかりにくいことですがね。
精子や卵子の売買、体細胞クローン人間がなぜ悪いか、その答えは仏教の縁起という考えから明確にすることができます。縁は運命とは違うのですね。一番違うところは、生き物は未来に向かって縁を選ぶものだということです。縁談、だれを連れ合いにするか、その縁は当人らが選びますわな。そして、精子は卵子に積極的に突入し、卵子はそれを受け入れますわな。親といえども、お前、おれの子供になれと精子に言えません。精子と卵子それぞれの問題ですわな。受精とは生物にとって、縁を自己決定する厳粛なはじめての出来事だということです。このことで体外受精にはすべて問題があります。ましてや精子や卵子が売買されるとは、この生き物にとって尊い厳粛な権利、人権が受精以前に、第三者の身勝手な欲望によって損なわれるということで、倫理的に具合が悪いことは言うまでもありません。
そしてもう一つ大事なことは、人為的に親の所在が受精以前に消されているということです。生まれ出る生命にとって、親を持つという生物の最も基本的な条件が犯されるのですから、それは倫理的に最悪の行為だということになります。ましてや、親のない体細胞クローンではね。私は、功利的色彩が薄い夫婦間の人工受精が倫理的にゆずれる限界だと思います。その限界を越えてできた生命が、不幸にもそれを求めた者の期待に反するものであったとき、悲劇は個人的にも社会的にも想像するに余りあるものがありますね。不幸にして生まれ出た者の立場にたって考えれば、倫理や法律で片付けられるような生易しいものではありませんわな。

岡田 そういうことですね。

それでね、科学が善用されるのも、悪用されるのも、それにかかわる者の考え一つですわな。しかも、ものすごく専門細分化され、他人では理解を越えるものがあるんですから、科学に自律性がなければならんですやろ。ということは、研究者教育で倫理教育を徹底する必要があるということですね。理学部や工学部を出た人がたくさん製薬会社などに入りますが、ここぞというときに歯止めがかかるんですやろか。

岡田 バイオの研究者も、僕らの時代は医学系の人が多かったんですね。今は逆転もいいところで、医学系の人が二割いるかいないかでしょうね。僕の経験からすると、研究者が研究対象に対してオールマイティではない、という意識が自然に身につくのが医学部教育の一つであったようにも思うんです。第一等の研究対象は患者さんであって、研究者は一方では研究対象そのものでもありうる、という意識が自然に生まれてきたようです。この感情は、まったく人間と無関係なところから、直接遺伝子や細胞に入ってきたバイオの人たちとはだいぶ違うだろうなと思いますね。

「いのち」の認め方でね。遺伝子の研究者とタンパク質の研究者でも生命現象の見方はたいへん違いますからね。たとえば、遺伝子から見ますとゲノムの解析は生命そのものの解析のように思われがちのようですが、タンパク質から見ると生命は奇々怪々、不可解なことばかりに見えますからね。

岡田 本当にそうですね。今日は先生との対談で、閉塞気味の僕の思考が少しほどけてきたように思います。どうもありがとうごさいました。

 

EYES

心ある科学時代へ

大脳生理学や情報科学の成果とも整合する「唯識」

どのように科学技術が進歩しても、死を免れることはできません。また健康や人間関係など思いどおりにならないことに悩むのが現実の人生です。そのなかで、心の安らぎを得る拠り所として宗教は機能してきました。たとえば仏教は、人間をはじめあらゆる存在の本質が無常であることを問い詰め、この現実をわきまえない思い(煩悩)に執着することに悩みの根源があり、その執着を離れた「覚」という境地のなかに真の安らぎのあることを教えてきました。

今回、LF対談に登場していただいた泉美治氏は、大乗仏教の基礎哲学といわれる唯識をご自身の自然観の基礎にして、右手と左手の関係のように、一般的性質はまったく同じであるのに、構造的に右と左の型がある分子の、いずれか一方だけをつくる触媒について、その発見から実用化までの研究をされてきました。

天然物には右型と左型がある物質がたくさんありますが、糖やアミノ酸はその代表的なものです。たとえばタンパク質を構成しているアミノ酸は、一つのアミノ酸を除いて、すべて通称左型と呼ばれるアミノ酸からできています。ところが、そのような物質を化学的に合成すると、正確に右と左の等量混合物が得られます。蛋白質が左型のアミノ酸だけからできているのは、アミノ酸をつくる酵素が左型だけをつくる特殊な能力を持っているからです。
今ではどのような物質でも、右型だけ、左型だけを触媒でつくることができるようになっていますが、かつては、生体内では生命力という力が働くからだと、信じられないようなことが化学の専門書の中にさえ出ていたといいます。そうしたなかで泉氏は、アミノ酸のような簡単な分子の左右どちらかをニッケル金属触媒表面につけると、酵素のような働きが簡単に得られることを発見されたのです。

そのかたわら泉氏は、唯識の認識の論理から、反応を受ける分子の形が触媒によって認識されるという、分子間認識にかかわる新しい概念も提案され、そこで提案された用語は科学用語として広く用いられています。
泉氏は、難解といわれる唯識は現代流にいえば大脳生理学や情報科学を基礎に置いた宗教哲学で、現代科学と整合する部分が多いといわれます。たとえば、唯識は私たちの認識機能を分析し、そのなかで五感に相当する感覚機能や回想機能、記憶を自分の立場とする機能、あるいは言葉によって意識をつくる機能などを考えているといいます。そこでは本能も記憶の一部として考えられ、記憶素子(メモリー)に類した考えも出てくるそうです。

科学的な視点から、仏教やその哲学を考えてこられた泉氏は、巷間、よく耳にする仏教についての理解は、本来の教えや哲学と逆といえるほどの違いがあるといいます。氏は本来、仏教に、神も仏もないといいます。また、すべての存在は縁の上(かかわり合いのなか)にあるというのが、仏教がいうこの世のすべてを支配する真理であり、原理であるといいます。仏教では、このことにおいて、人間はもちろん生物、無生物を問わず、存在としての尊さは平等であるといっているそうです。

仏教こそ、心ある科学時代を開く宗教だと泉氏は説きます。仏教についての誤解を解き、仏教本来の考え方や、その哲学に耳を傾ければ、生命倫理や環境問題など科学そのものから答えを見つけられない問題にも、仏教は科学と整合する解決の道を示してくれるのではないでしょうか。

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