LF対談

山村先生は、人を育てることを常に言われていた No.50(2007.1)

大阪大学前総長・大学院生命機能研究科教授
岸本忠三 氏

財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岡田義雄 理事長

日本の免疫学の発展に貢献

岡田 岸本さんがこの財団を引き受けてくれることになってホッとしました。とにかく山村先生のつくられた財団ですから、一番弟子のあなたに継いでもらわないかんと思ってずっと待ってました(笑)。山村先生は阪大の総長になられてから、「山村構想」という北摂地域を生命科学のメッカにする構想を打ち出された。その構想を具体的に動かしたのも山村先生でしてね。最初は細胞工学センターの設立、それから医学部の全面移転を文部省、大蔵省にOKさせる。そのあと、大阪市の市制100周年に合わせてバイオサイエンス研究所、通産省、経団連と話をつけて蛋白工学研究所も引っぱってきた。で、この千里ライフサイエンスセンタービルが最後にできた。山村先生には、非常にうまく物事を積み重ねていく巨大さというのを感じていました。免疫学会のことでも、僕はいつも思い出すことがあってね。あなたがアメリカの石坂(公成)さんのところから阪大に帰ってきた頃、もう免疫学会はありましたか。

岸本 僕が帰ってきたのは1974年ですけど、その前の71年に第1回国際免疫学会がワシントンで行われて、そのときに日本免疫学会もつくられました。

岡田 僕が山村さんのことを非常に意識したのは、文部省の科学助成のことでね。昔からの分科細目があって、そこへ入りこむのがなかなか難しかった。僕が細胞生物学で、岡田節人が発生学。その2つをなんとか入れようとしてたのね。そしたら免疫学がひょこっと入りよる。おーっ、山村さんというのは強いなーと思ってね。だけど、その恩恵を結局、僕らも受けたのね。それまでの分科細目が現状と合わないことを山村先生は免疫学を通して示された。それが分科細目見直しの機運を生み、僕らの希望もかなえられた。

岸本 あの頃、日本の免疫学というのは遅れていて、世界から見たら70年代前半はまったく何もないような状態だったんですね。それを免疫学会をつくり、分科細目に入れ、国際免疫学会を誘致してくる。その流れの中で、一気に免疫学は発展しましたよね。免疫学が日本の学問の中でいかに高い地位を占めているかというのは、論文の引用数でわかる。上位1%に入る論文のうち日本が何%を占めるか。自然科学全体で8%なのが、免疫学は14%。2番目が素粒子物理学で13%です。それに山村先生の貢献は非常に大きいと思いますね。

岡田 学士入学というのも、あの時期には他の大学ではとても考えられんことでしたよね。

岸本 それの後追いで、全部の大学でできだしましたよね。3年目から入れるというのは。そういう先見の明は非常にありましたね。

岡田 一つのシステムがずーっと安定して動いているときに、今の時流には合わんぞとアイデアを出されて、それをちゃんと動かしていけるのは大きいなと。

岸本 細胞工学センターをつくられたときも、学部を越えて人を集めた。その時分の大学では考えられんことですよね。学部自治とかありましたから。

岡田 あのあと、他の大学も少しずつ真似しだしたもんね。あれをつくったとき、日本にはなかったような研究所やから、ちゃんとやらなあかんなと思ってたけれど、岸本さんがすごい成果を上げてくれたから、かっこうがついた(笑)。

岸本 総長になられて何カ月かした頃ですよ。自分の恩師であった赤堀(四郎)先生は蛋白質研究所をつくられた。自分も何かそういうブレークスルーになるようなことをしたいと。

岡田 そういう相談をしとったわけなのね。山村先生が僕のところへ来られたのは、就任されて翌年の正月の8日でしたが、最初は僕、うんとよう言わんかった。微研に3階建ての建物をようやっとつくってさ、これからというときやったからね。山村先生、ああいうときの説得の仕方、上手やなあ。結局、やりましょうと言わざるをえんかった。しかし、結局はやっといてよかった。ほんとにそうだったと思うよ。

岸本 それが大阪大学の生命科学の一つの基盤になりましたからね。

正宗で鉛筆は削れない。鉛筆を削るには肥後守がちょうどいい

岡田 山村構想の中には今の彩都まで入っていたわけだけれど、結局、彩都に関しては土地整備が遅すぎたね。

岸本 医薬基盤研究所が一つの核として来たというのは大きいですけど、武田の研究所が来なかったというのは…。

岡田 やっぱり10年早く、土地の整備をやってくれていたら、製薬会社の研究所が3つくらいはできてたような気がする。山村さんがおったら、こういうようにはならんかったかもしれん。

岸本 だけど、基盤研が来て、ちょっとずつは進んできましたけどね。

岡田 心残りとしたら、彩都だけはどうなるか。気になりますね。ところで、あなたは3年生のときが山村さんとの出会いだったわけ?

岸本 今でいう5年生ですね。最初の講義は、SLE(全身性エリテマトーデス)だったですかね。自分自身のDNAに抗体ができて、病気になると。それから免疫学に興味を持ち出したわけですけど、たとえば糖尿病の講義にしても非常に明解でわかりやすかったですよね。

岡田 僕の頃は臨床の講義の話が平板で出る気がせんかった(笑)。

岸本 内科教室に入ったのは、僕の研究の発展にはプラスになってますよね、病気を知っているということで。そのあと、細胞工学センターで基礎的な研究を展開したけど、そこには病気の、医者としての観点が入っている。僕は医学部の学生によく言うんです。「我々のメリットは何かというと病気を知っとるということや。生命科学の研究は病気に影響を与えるときにインパクトが大きい」と。それから、また内科へ戻ったのは回り道かもしらんけど(笑)、それは抗体医薬とかにつながりましたもんね。

岸本 山村先生も岸本さんも道筋が一緒なのがまた不思議なのね。山村先生は阪大の医学部を出て、戦後、刀根山病院で結核の患者を診られ、医化学の教授で九大に行かれて、第三内科の教授で阪大に帰ってこられて、それから医学部長やって総長やって。そのあと、文部省の学術審議会の会長とか行政にも…あなたと一緒やなと(笑)。細胞工学センターで基礎やって、内科の教授になって、医学部長、総長になって、それから内閣府の総合科学技術会議の議員になって…。

岸本 同じようなことをして。

岡田 いや、よう似とるわ。

岸本 山村先生、人を育てるということを常に言われてましたよね。大きな発見をしても、それは教科書に一行残るだけやと。人を育てれば、その人はまた次の人を育てる。それで次々と自分の考えが広がって、末代まで伝わっていくんやと。だから、弟子を育てろと。そういう点で、僕も…。

岡田 見事に育ててますな。

岸本 弟子の次の弟子くらいまでがもう教授になってきてますからね。それからもう一つ、なかなか僕にできないことで山村先生が言われたのは、「正宗で鉛筆は削れない。鉛筆を削るには肥後守がちょうどいい」。人にはそれぞれ持って生まれた能力がある。正宗ばっかり可愛がっていてはあかんでと。それぞれの能力を認めて引き出してやる必要がある。それは内科の教室では特に大事ですよね。

岡田 やっぱり表現の仕方が上手ねえ。

岸本 それから、「管理職は専門に強くなければ迫力がない」。研究者としてちゃんとしてなかったら、人はついて来ないと。この頃は大学の教授が怒らんと聞いたけど、怒るだけの勇気もないし、怒ったって若いやつは言うことを聞かん。早いうちに帰ってしまいよる(笑)。それは、この人の言うことやったら、とリスペクトされてないんと違うかと。だから、「管理職は専門に強くなければ迫力がない」というのは、非常に大事だと思いますね。

岡田 そうでしょうね。だけど、すごい先生についたな、あなた。あなたの弟子もすごい先生についたと思ってるで。

岸本 それは知りませんけどね(笑)。この頃はおとなしくなられましたねと言われる。昔、そうでしたな。細胞工学センターの玄関に入ったら、いつも僕のワーッと怒鳴っとるのが聞こえると。あの頃は一生懸命やったんですよ。山村先生はそんなに怒らんかったし、表向きはマイルドでしたよね。何か知らんけど、人の話を聞くのが上手やったですね。悩み事とかがあって話をしますでしょ。そうすると、何にもええ答を得たわけでもないのに、スッとしたような、うまいこといったような感じになりましたもんね。みんな、そう言ってますもんね。

岡田 僕はそれほどの付き合いじゃなかったけど、山村先生というのは、横にいてもらうだけで非常に安心できる人やと思ってたなあ。

岸本忠三 氏

岸本忠三 氏

大阪大学前総長・大学院生命機能研究科教授

1939年、大阪府生まれ。64年大阪大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了。70~74年米国ジョンス・ホプキンス大学研究員及び客員助教授。79年大阪大学医学部教授(病理病態学)、83年同大学細胞工学センター教授(免疫細胞研究部門)、91年医学部教授(内科学第三講座)、95年医学部長、97年総長。03年退任、名誉教授。総長退任後も大学院生命機能研究科で研究を続ける。04~06年内閣府総合科学技術会議常勤議員。専門分野は免疫学。受賞は朝日賞、日本学士院賞・恩賜賞、文化功労者、文化勲章、ロベルト・コッホゴールドメダルほか。日本学士院会員、米国科学アカデミー外国人会員。

お金を使わないで頭を使え

岡田  ところで、この間までやっておられた総合科学技術会議の議員のときと、総長のときとどっちが面白かった?

岸本 そりゃ、総長のときが面白かったですよ。小なりといえども大将ですもんね。ですが、若かったこともあるけど、細胞工学センターのときが一番よかったというか、しんどかったけど面白かったですね。

岡田  僕も面白かったな。とにかく教授会もほとんどせんかった(笑)。

岸本 アメリカに行って帰ってきても、1週間したらまたヨーロッパへ行くとか。

岡田  ほんとに自由だったし、研究費の苦労もあまりなかったね。

岸本 別にそんなにいらないしね。だから、今の何億円というのは、ちょっとおかしいですよね。そんなにいるもんやないんです(笑)。いつも僕は言うんです。「お金が出すぎると、頭を使わんようになる。お金を使わないで、頭を使うのが大事や」と。そうですわ。もし限られた金しかなかったら、一生懸命考えて必要なことしかしないですよね。必要なことに絞ってやると、やっぱりちゃんとしたことができる。それが、お金があるからと、ネズミをみんなノックアウトしとけ、どこやらの遺伝子もクローニングしとけ…ともう好き放題に使っているという感じで(笑)。

岡田  確かにお金はそれがゼロになるまで使わなあかんという圧力があるから。

岸本 しかも、それを年度内に使わないといけないとかね。それで僕は会議で言ったんですよ。新しい年度の研究費が実際に入るのは、7月か8月ですよね。そして、3月31日までに使わんといかん。そしたら、4月から6月までネズミはエサを食べてないんですか。聞いたことないですよ、エサがなくてネズミが死んだなんて(笑)と。それは何か工夫して年度を越してるんですね。

岡田  現実にはね。

岸本 それをやっぱり公にできるような仕組みを制度的に保証しないといけない。それで今、研究費は繰り越して使えるようになりましたけどね。

岡田  それは大きな変化ですね。

岸本 さっきのネズミの話してね(笑)。

岡田  山村さんが学術審議会の会長をされていた頃は科学研究費が少なかった。それを1千億円にしようというのが目標でした。

岸本 それが今は競争的研究資金ということで、これまでの5年間で科学研究費はトータル21兆円ですもんね。だから、何億という研究費をもらう人があるわけですよ。それで僕、言ったんですよ。「聖徳太子でもいっぺんに10人の人からしか話を聞けないのに、それだけお金をもらって、それだけ人を集めて、どないして研究するんですか」と(笑)。

岡田  確かに、網羅的研究ということで機械を何十台と動かしていく工場ぐらい作らんことには、お金がはけない。

岸本 それはそれで必要なのかしらんけれども、研究の面白味が…。

岡田  ああいう作業は若い人をスポイルしないかと。そんな世の中になったんかなと思うけど、あれやるんだったらオレ、絶対に研究者にならんかったなあ。

岸本 金を使わんと頭を使えという。

岡田  年をとると現状に関して文句言うのは昔からそうなんだろうけど、オレも年寄りやから文句言うのか、ようわからんのやけどね。

岸本 だから、競争的な研究資金が増えるのは大事なことだけど、それには正しい評価が行われて、それが生かされるようなものでないと。

岡田  そこが難しい。

岸本 「ちゃんとした評価ができないなら、少しずつみんなに平等に配ったほうがまだましです」と僕、最後に総理大臣のいるところで言ったんです。それでも競争的な環境は必要だというなら、世界中の研究者を巻き込んで、その分野についてよく知っている、しかし利害にはいっさい関わっていない人に評価してもらう。僕はそういう評価システムにしないとダメやと言ったんですけどね。

岡田  いや、評価というのは難しいね。

岸本 それから、役に立つ研究だとか、応用研究だとか言いすぎるでしょう。細胞融合でもそうでしょ。モノクローナル抗体を作ろうと思って見つけたわけじゃない。抗体医薬だって、誰も最初からそんなこと思って抗体の研究をしてたわけじゃない。それを、何に役に立ちます、とか言いすぎるから、近視眼的になる。

岡田  僕もそんな感じは持ってるけど、研究の世界と、行政の世界は違う世界でね。行政のほうはある期間に何らかの成果を出さないといかん。研究のほうは時間の制限なしと。

岸本 そういうことですね。研究費は税金で賄われているんだから、納税者に説明できるような成果を上げないといかんわけで。好き勝手なことやるなら、自分でやれと。しかし、好き勝手に楽しんでやってたようなことから、最終的には大きなものが出たりする。だから、長いスパンの中で、いいものを目利きが評価して、そこへお金を出していく。そうすると、いずれは大きな成果を生むだろうと。

岡田  そうなのね。しかし、あなたのおった内閣府も行政の…。

岸本 最たるもので、それをちょっとでもいい方向に変えていこうと、一生懸命言うとると、不整脈も出るわけで(笑)。

岡田  その点、山村先生はこっちのほうにウエイトを置かれていたからね。このビルの鍬入れ式のとき、山村先生、車椅子で来られて、大変やったと思う。その翌年に亡くなられたからね。いやー、待ったんやで。オレの予定では、初めからあなたにバトンタッチしようと思ってたから。それがいくら待っても交代時期にならん(笑)。山村先生の言じゃないけど、組織にも細菌の培養みたいにラテント(潜伏期)があって、エクスポネンシャル(増殖期)がある。今の財団は…。

岸本 もうエクスポネンシャルすぎて、定常状態ですか。まあ15年たって定着したということで、さらに発展するようにせないかんですね。

岡田  山村先生の価値観みたいなものが今後もベースにあれば、それで先生も許してくれるんじゃないかと思うわ。よろしく頼みます。

 

EYES

山村雄一、岸本忠三…と続く大阪大学の免疫学の伝統

B細胞に抗体をつくらせるインターロイキン6を発見

肺結核では、症状が重くなると肺の組織に空洞ができます。それは結核菌の侵蝕によるものではなく、体の中の免疫システムが過剰反応することによって起こります。結核菌に対抗するため、免疫細胞のマクロファージ(大食細胞)が大量に動員されて融合すると、肉芽腫と呼ばれる病巣をつくります。それが腐敗すると肺の組織を破壊してしまうのです。

この肺結核の空洞の解明に貢献されたのが、当財団の設立にも尽力された故・山村雄一氏(当時大阪大学総長)です。山村氏は、ウサギを使った実験で、死んだ結核菌によっても肺組織に空洞ができることを発見。空洞が一種のアレルギー反応によって起こることを明らかにされました。山村氏はガンの免疫療法も開拓されました。結核予防のワクチンとして結核菌を弱毒化したBCGが用いられますが、そのBCGから結核菌の細胞壁だけを取り出したBCG・CWSがガン患者に延命効果のあることを発表するなど、体の中の免疫システムを活性化して、ガンの治療にも役立てようとされたのです。その山村氏の一番弟子とされるのが、今回、LF対談にご登場いただいた前大阪大学総長の岸本忠三氏です。

岸本氏は、大阪大学の山村氏の内科教室で学ばれた後、花粉症などのアレルギーの原因となるIgE抗体を発見された、米国ジョンス・ホプキンス大学の石坂公成氏(ラホイヤアレルギー免疫研究所名誉所長)の元に、1970年に留学。石坂氏と共に実験を進め、体の中に入った異物を攻撃する抗体をB細胞(Bリンパ球)がつくる際にはT細胞(Tリンパ球)の助けが必要なことを突き止め、B細胞の増殖や分化を促す何らかの分子をT細胞が出しているのではないかと発表されました。現在はT細胞にはいくつか種類があることがわかり、上記のような働きをするT細胞をヘルパーT細胞、ウイルスに感染した細胞などを直接攻撃するT細胞をキラーT細胞などと呼んでいます。

80年代になると、T細胞に限らず、免疫細胞はさまざまな種類のタンパク分子(サイトカイン)を出し合って、複雑な免疫システムをつくり上げていることがわかってきました。そうした分子のことをインターフェロンやインターロイキン(IL)などと呼びますが、大阪大学に戻っていた岸本氏が86年に平野俊夫氏との共同研究で、その遺伝子解読に成功されたのが、当時はBSF2と呼ばれていたIL6です。遺伝子からタンパク分子の構造もわかります。岸本氏は81年にT細胞がB細胞に出す分子には、B細胞を増やす分子と抗体をつくらせる分子の2種類があると報告されていました。IL6は抗体をつくらせるほうの分子で、その実体が明らかになったのです。IL6は、抗体をつくらせる他にも、発熱・炎症を起こすなどさまざまな働きをしています。岸本氏らは、IL6の受容体の遺伝子解読にも成功しました。その後も、サイトカインの働きを中心に精力的な研究を展開されています。

山村氏や岸本氏、平野氏など、大阪大学のグループは日本の免疫学の発展に大きな足跡を残してきました。日本免疫学会を設立したのも山村氏です。近年では、微生物病研究所の審良静男氏の自然免疫におけるToll-like受容体の研究が世界的に注目を集めました。それは山村氏の免疫療法になぜ効果があったのかを分子レベルで説明するような研究でもありました。山村氏、岸本氏…と受け継がれてきた大阪大学の免疫学の伝統が今後も大きな実りを生み出すことが期待されます。

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