LF対談
トランスレーショナルリサーチの活性化をめざして No.52(2007.10)
(財)先端医療振興財団理事長
井村 裕夫 氏
財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岸本忠三 理事長
一生懸命に講義することは大事
岸本 僕がホストを務める対談の第1回目を井村先生にお願いしたのは、内科の教授、総長、そして総合科学技術会議議員、財団の理事長という先生のご経歴は、すべて僕が10年遅れて追いかけてきた道筋でしてね。その時々にどのようなことを考えておられたか、あるいは今後どういうふうにすればよいかなど、いろいろ教えていただけないかと思ったからでして。で、先生は滋賀県のご出身で京都大学の医学部に進まれる。どうして医学部に行こうと思われましたか。
井村 私の家はまったく医者とは関係なくてお茶の製造と販売をやっていました。ただ、子供のときに私、熱ばっかり出していましてね。小学校もかなり休んで、近くの病院に行っていました。で、いつのまにか医者になろうと思ったんですね。だから、大学を卒業しても将来は田舎に帰って開業しようと考えていて、そのために一番平凡な第2内科に入ったんです。第1、第3は当時、個性的な教授がおられましてね。ただ、患者さんを持ってみると臨床もなかなか難しい。大学院に入って、少し研究でもしようかと思ったのが始まりなんです。
岸本 それで、内分泌の研究を…。
井村 外の病院に出ている間に、第2内科は三宅儀先生という内分泌の教授に代わっていました。我々の時代には自分ではあまり専門を選べなくて、内分泌をやれと言われたら、ハイとやるだけでしてね。
岸本 1950年代は内分泌というか、ホルモンの研究が盛んになって、内分泌学の教授がたくさん出た時代ですね。
井村 そうですね。内分泌というのはちょっと他の内科の分野とは違って、ホルモンハンターがいましてね、何かホルモンを見つけると、みんなが臨床に使えないかとワッといろんなことをやりだす。まさにそういう時代だったんですね。
岸本 先生が最初に教授になられたのは、神戸大学に行かれたときですね。そのとき、下垂体で作られる副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)には、まず前駆体のステージがあってという画期的な仕事をされました。それは病気か何かから調べられたわけですか。
井村 そうです。異所性ACTH産生腫瘍というのがあり、これは下垂体ではなく、胸腺などの腫瘍ですけど、ACTHを作るんですね。そのACTHを調べると、免疫学的に測ると高い値なのに、生物活性がものすごく低いことに気づきました。どうしてだろうと。その頃、インスリンの前駆体のプロインスリンが発見されましてね。これじゃないかと考えたのが、京都大学にいたときです。その後、ACTH産生肺がんの血液中には大分子のACTHが多いという論文も発表され、神戸大学に移ってからACTH産生腫瘍の組織を調べてみると、やっぱり大分子のものが見つかって生物活性も低い。そして、それが確かに下垂体のACTHの前駆体であるのか、京都大学の沼(正作)さんのところと共同研究することになりました。そうしたら、3万5000ぐらいの大分子が前駆体だということがわかりまして、中西(重忠)さんがアメリカに持っていってクローニングして、その構造決定にも成功したわけです。
岸本 沼-中西グループと合流して、大きな研究になりましたね。神戸大学には何年ぐらいおられたんですか。
井村 6年近くおりました。神戸に第3内科が新設されて行ったんです。行った日に「井村は罷免した」という立て看板が立っていました(笑)。まだ紛争が終わって間もないときで、1971年です。助講会が反対していたんですよ。京都から来たからけしからんと。それで、新設の内科に誰も来てくれない。1人で内科はできないし、どうしようかと。しばらく考えて、こういうときは原点に戻ろうと、一生懸命に講義をしたんです。慎重に準備して。あんなに準備したのは、一生にあのときだけですね。
岸本 そんなことはないでしょうけど(笑)。
井村 そうしたら、電話がかかってきて、会いたい、私の教室づくりの抱負を聞きたいと。話をしたら、入れてくださいと言ったのが、私の最初の大学院生で、今は神戸大学の医学部長をしています。
岸本 講義を一生懸命にするというのは大事ですね。僕が大阪大学の5年生のときに山村雄一先生が面白い講義をされました。それで、この人のところに入ろうと思って、内科をするつもりはなかったのに第3内科に入った。だから、僕も内科の教授になったときは一生懸命に講義をしました。そしたら、今、教授になっているのがたくさん入ってきましたよね。
井村 非常に大事だと思います。やっぱり若い人に火をつけるといいますか。早石修先生がものすごく講義が上手で。
岸本 今でも上手ですね。
井村 若い人があの講義を聞いて、生化学へどんどん進んだわけです。やはり講義というのは非常に大事なんですね。
“白い巨塔”のほうがよかった?
岸本 僕は大学といったら大阪大学だけですけど、先生は神戸大学へと、いったん外へ出ておられます。外に出るというのはいいことですかね。
井村 私にとっては非常によかったと思います。古い大学というのは良きにつけ悪しきにつけ、澱のように溜まったものもありますし、それが別の大学に行くと、まったく違う環境ですから。もう1つは比較的若い大学ですから、若い人がワッとやる雰囲気があったので、それはよかったですね。
岸本 最近、大学を卒業してそのまま同じ大学に残るのがいかんのやと。大学院は同じ大学からは30%までで、それ以上は採るなとか言っていますよね。アメリカはそうだというけど、アメリカは何十と同じように高いレベルの大学がありますよね。日本はそうではない。
井村 そこは大問題でしょうね。しかもアメリカでは大学間のランキングもしょっちゅう入れ替わっています。日本はランキング、変わらんのですよ。だから、強制的にというのは弊害も出る。
岸本 もう1つ、研修医もね、卒業生の臨床研修が義務化され、その研修先は自分で選ぶようになった。結局、外の病院へ出る卒業生が増えるというふうに制度が変わりましたよね。これもまたアメリカの制度を取り入れたわけですけど、その結果として“白い巨塔”が“白い廃墟”になったと、この前の医学会総会でも言われていました。先生は、白い巨塔の典型的な時代の内科の教授ですけど(笑)。
井村 いや、大阪大学とはだいぶ違いまして、とても白い巨塔ではなかったですよ。
岸本 大学病院の医局制度は、教授が大きな力を持っていて封建的とかいわれましたけど、それは医者を訓練し、また医者が偏在しないようにどこそこに行かせる。すべての仕組みがそれでもっていたわけですよね。それを急に揺り動かしたがために、医者の偏在というものすごく大きなことになっている。そうすると、考えてみたら白い巨塔のほうがよかったんじゃないかと(笑)。
井村 私はそうは言えないだろうと思いますけど、ただね、医療全体がきわめて難しい状況に来ているときに、これやったわけですね。昔のように、医者になれば非常によかったという時代じゃなくて、医療費抑制政策の中で、病院の医者になっても少ない給料で苛酷な労働を強いられる。だから今、ものすごい勢いで開業医が増えていますよね。医療全体が崩壊しかけている状況の中でやったから、そういう医者の偏在もひどくなったんじゃないでしょうか。
岸本 で、先生は神戸から京都大学に帰られて、それから医学部長、総長になられる。総長をやってみてどうでしたか。
井村 6年やってみて、やはりチャレンジングである意味では面白かったですね。総長の間に、4つの独立研究科をつくったんです。生命科学研究科もその1つです。まだガチガチの学部自治で、総長は学部の中には絶対に手を入れるなという状況でしたけど、学部の枠を越えたことは本部でやるよと言いましてね。同時に研究所も少し改組しようということで、再生医科学研究所をつくりました。
岸本 そこから、ES細胞(胚性幹細胞)の研究とか出てきていますね。
井村 西川(伸一)君が、再生がいいって言いましてね。再生医学って何をやるのと言っていたら、当時『Science』に特集が出まして、それを読むとなかなか面白い。京都大学にとっては非常によい選択でしたね。
岸本 再生医学という概念もあれが最初ですかね。
井村 日本ではそうかもしれません。
岸本 それが神戸の発展にもつながっていますよね。理化学研究所の発生・再生科学総合研究センターができてと。で、先生の総長最後の年、僕が大阪大学の総長になった年から大学を法人化するという議論が起こりはじめました。結局、独立行政法人になりましたけど。
井村 私は流れとしては、もう止むを得ないかもしれないと。日本の大学は国立だと法人格を持っていませんでしたから、ある面ではやりにくいところもありました。ただ、今のようにどんどん交付金がカットされると、特に地方の大学は大変でしょうね。その分、競争的研究資金が入っているといっても、やっぱり旧帝大に偏っている。特に大変なのは大学病院で2%カットです。これはもう病院にとってはぎりぎりまで来ているんじゃないでしょうか。
岸本 たくさん外来患者を集めてとか、普通の病院のようなことをしないとやっていけないようになっていますね。
井村 日本で臨床研究が遅れている理由の1つとして、大学病院に必ずしも来なくていい患者さんが来て、来ないといけないような患者さんが来ていないという状況があります。外国なら、たとえば岸本先生のところには免疫関係の病気の患者さんが集まって、それ以外の人はそんなに来ないでしょうね。しかし、稼げ、稼げと言われるようになると、そういう人も大事にしないといけない。非常に大きなロスをしていると思いますね。
井村 裕夫 氏
(財)先端医療振興財団理事長
1931年、滋賀県生まれ。54年京都大学医学部卒業、55年医学部付属病院副手、56年大津赤十字病院医員、62年京都大学大学院医学研究科博士課程修了、医学部付属病院助手、63~65年米国カリフォルニア大学研究員、65年京都大学医学部講師、71年神戸大学医学部教授、77年京都大学医学部教授、89年医学部長、91年総長、97年退任、名誉教授、98年神戸市立中央市民病院長、04年(財)先端医療振興財団理事長、科学技術振興機構顧問。科学技術会議議員(98~01年)、総合科学技術会議議員(01~04年)などを歴任。専門分野は内分泌学、特に下垂体ホルモンの生合成と分泌調節、臨床神経内分泌学、心血管ホルモンの基礎と臨床、膵消化管ホルモンなど。受賞は英国内分泌学会DaleMedal、武田医学賞、ベルツ賞、日本医師会医学賞ほか。瑞宝大綬章受章。日本学士院会員、米国芸術科学アカデミー外国人名誉会員。
日本発の医薬、医療技術の実現へ
岸本 現在、先生は神戸の先端医療振興財団の理事長をしておられますけど、常に言われているのがトランスレーショナルリサーチ(基礎から臨床への橋渡し研究)を盛んにということですね。それはその通りでして、日本は基礎的な研究は非常にいいものが出ているのに、なぜ日本発の新しい医薬や医療技術、機械は出てこないのかといわれる。一番の問題は、どこにあるんでしょうかね。
井村 まず臨床の医者がそういうことの重要性を十分に理解していない。私自身もそうでした。どちらかといえば、基礎的な研究をしているほうが面白いんです。
岸本 評価されるのも、『Nature』や『Science』に出たら評価されるけど、臨床の雑誌に載ってもなかなか評価されないというのがありますよね。
井村 私は、そのことは頭ではわかっていたんです。だから、いつも教室員には一生に一度でもいいから『New EnglandJournal of Medicine』に論文を出せと言っていたんですよ。でも、私も2つ出しましたけど、なかなかいい論文を書くのは難しかったですね。ところが、『New England Journal of Medicine』の編集委員になって愕然としたのは、日本からの掲載があまりに少ないことです。ランキングでいくと、常に10位以下。これはなんとかしないといけないと思い始めたのが、総長になった頃でした。それで、神戸に行ったときにトランスレーショナルリサーチを言い出したんですね。やっぱり最大の問題は、医者がそういう臨床研究の重要性を十分に理解していなかったことと、先生が言われるように評価されないこと。それに非常に時間がかかる。先生のIL6抗体薬も、かなり時間がかかったでしょ。
岸本 できたのはいいけれど、5年遅かったなと言われましたよ。
井村 もう1つは、周辺の人材を養成していないんです。たとえば、医学の分野で統計のできる人ってほとんどいない。ところが、新しい治療薬を評価するときには、やはり統計学的にきちんとしたデザインができていないといけません。そういう人を養成しないといけないのに、日本の大学は簡単には変えられない。人材をどうするかというのはなかなか難しい。3番目は、規制当局があまりにも力が足りない。もっと規制当局がサイエンティフィックなレベルを上げて、いいものとそうでないものを見分けて、いいものはいち早く認可していくことが必要だと思いますね。
岸本 それに、企業もいまだに外国をありがたがる風潮がありますよね。日本の中にも隠れたいいものがあるのに、それを掘り起こそうという努力も足りんようですね。こっちから見たら。
井村 そうだと思います。だから、日本でたとえば理化学研究所が情報を開示してもほとんど来ない。むしろ外国の企業が来る。
岸本 そういう意味で、ここの財団は研究者と企業の接着剤になって、両者が交流できるような、それをできるだけ盛んにするような場をつくっていきたいと考えていますけどね。神戸も同じだと思いますし、文部科学省の知的クラスターもそういうのが大事だということですね。
井村 シーズの段階、それはそれぞれの研究者が自分のアイデアでやる。そしていいシーズがあったときに、どうやって実用化していくか、その仕組みが今まで日本にはまったくなかった。やっと今、知的クラスターの制度ができて、大阪にはここの財団、神戸には私どもの財団もある。ようやく少し出口が見え出したんですね。アメリカでは実用化までに2つの越えないといけない障碍があるといいます。1つは、デビルリバー(魔の川)。基礎研究を最初に人、臨床研究にもっていくとき。ここに規制がある。倫理がある。それから、一般的な反対がある。
岸本 日本では、特にそれが大きいですね。
井村 魔の川を越えてやっと少し臨床試験を始める。それを一般臨床にもっていくためには、もう1つデスバレー(死の谷)を越えないといけない。ここにはお金がかかるし、いろんな規制があるわけですね。そのあたりを、埋めていかんといけないだろうと思うんですね。今回、知的クラスターは関西広域クラスターということで、先生のところと一緒にやることになりました。お互いに力を合わせて、なんとか国際的に名の通ったものにしたいですね。
岸本 世界から顔の見えるものにしたいですね。最後に、いつも僕は感じるんですけど、講演でも会議でも、先生は非常にシャープでしょ。頭が全然、衰えていないというか(笑)。何か秘策はありますか。やっぱり常に勉強を怠らないということですか。
井村 どうですかね。ボケると困るので、時間があれば勉強はすることにしています。そして講演を頼まれると、少しでも新しいことを入れるとか、そういう努力はしていますけど。
岸本 いつも著書を送っていただいていますけど、あれもご自分で書かれている?
井村 書くのは嫌いではないんです。まあしかし、老化防止です。
岸本 老化という意味では、僕は10年、後から来て、10年、先にいますよ(笑)。
井村 いや、先生にはもっと活躍していただかないと。ただ、英語の格言がありましてね。“考えられることは、できるだけ明解に考えましょう。言うべきことは、できるだけ明解に言いましょう”と。それは、1つのモットーにしています。
岸本 そうなっていますよね。先生のお話は、いつも非常にわかりやすい。今日は、お忙しいところ、どうもありがとうございました。
EYES
基礎研究の優れた成果を臨床に生かす研究をバックアップ
彩都地域と神戸地域が共同でバイオクラスター形成を推進
文部科学省の知的クラスター創成事業は、ライフサイエンスや情報通信などの分野で、地域におけるクラスター(研究開発機関・関連企業の集積)形成、産業育成の取り組みを支援するプロジェクトです。その第Ⅱ期事業(平成19~23年度)において、大阪府と神戸市が共同で提案していた「関西広域バイオメディカルクラスター構想」が選ばれました。
同構想では、大阪北部(彩都)地域とポートアイランドを中心とした神戸地域が対象地域となります。両地域はそれぞれ個別に選ばれた知的クラスターの第Ⅰ期事業(平成14~18年度)においても、連携して事業を進めてきました。それが今回はさらに密接に連携して事業を進めることになるわけですが、その事業の運営を担うのが彩都地域は当財団、神戸地域が(財)先端医療振興財団です。後者は、知的クラスターの第Ⅰ期事業にも選ばれた神戸市の「神戸医療産業都市構想」推進のために設立され、産学官の連携のもと、先端医療の臨床研究や技術開発などを行ってきました。その(財)先端医療振興財団の理事長を務められているのが、今回、LF対談にご登場いただいた井村裕夫氏(京都大学名誉教授)です。
井村氏は、京都大学、神戸大学などにおいて内科の診療、研究に従事され、研究者としては、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)など下垂体ホルモンの生合成過程の研究で、ホルモンの種類によっては、最初は大きな分子の前駆体ホルモンが合成され、その後、組織によって異なった部分が切り出され、別々のホルモンとして分泌されることを解明されるなど、内分泌学の分野で貴重な貢献をされました。91年に京都大学総長に就任されて以降は、高等教育の改革や科学技術の振興に尽力され、国立大学協会会長、総合科学技術会議議員などを歴任されています。
現在、井村氏が提唱されているのが、トランスレーショナルリサーチの振興です。トランスレーショナルリサーチとは、基礎から臨床への橋渡し研究のことで、「基礎的な研究成果を臨床に応用することを目的にチームで行う研究」とされています。具体的には、医学やその関連分野の基礎研究で得られた知見や技術を、新しい医薬や診断・治療法、医療機器として臨床の場で実用化できるようにするための研究といえるでしょう。新薬の臨床試験なども含まれ、単に臨床研究という場合もあります。
(財)先端医療振興財団では、「医療機器の開発」「医薬品等の開発」「再生医療等の臨床応用」の3つの分野において、財団の診療部門である先端医療センターを中心にそうした取り組みが推進されています。特に、理化学研究所の発生・再生科学総合研究センターと連携して進められている「再生医療等の臨床応用」は、神戸地域を特徴づける取り組みとして注目されます。たとえば、慢性下肢虚血の患者さんの血液から採取した血管のもとになる細胞を患部に注射することによって血管を再生して血流を復活し、下肢を切断しなくてすむようにする治療法などが実践されています。
関西広域バイオメディカルクラスター構想においても、基礎研究の成果の実用化が推進されることになります。同構想がめざすのは「世界へ顔が見えるバイオクラスター」です。彩都地域と神戸地域が協力することによって、それが近い将来、実現されることを願ってやみません。