LF対談

【追悼座談会】
細胞工学センターで岡田先生と共に研究して No.54(2008.6)

大阪大学名誉教授
松原謙一 氏

東京大学大学院医学系研究科教授
谷口維紹 氏

大阪大学大学院生命機能研究科医学系研究科教授
米田悦啓 氏

(財)千里ライフサイエンス振興財団
岸本忠三 理事長

故岡田善雄前理事長を偲び、岸本忠三理事長をはじめ、1982年に設立された大阪大学細胞工学センター(現・大学院生命機能研究科)で、初代センター長を務められた岡田前理事長と共に研究生活を送られた先生方に、当時の思い出などを語り合っていただきました。

細胞工学センターに集まった人たち

岸本 今日はお忙しいところ、お集まりくださり、ありがとうございます。今年の1月に岡田善雄先生が急逝されて、今号の広報誌では岡田先生の追悼座談会を掲載することになりました。そこで、細胞工学センターで岡田先生とご一緒された皆さんに集まっていただいたわけですが、まずは松原先生に岡田先生との出会いなどから…。

松原 岡田先生とは、岸本先生より私のほうがコミュニケーションを始めたのは早かったのかな。

岸本 僕は細胞工学センターの話が動き出してからですね。最初は、山村雄一先生が1979年に総長になられて、山村先生の師の赤堀(四郎)先生は蛋白質研究所を作ったけど、自分もライフサイエンスを発展させるような施設を作りたい、誰に相談したらいいやろかと僕に聞かれたんですね。で、その頃、細胞融合、細胞工学ということで岡田先生が脚光を浴びておられたので、岡田先生に相談したらどうですか、と話しました。それで、山村先生が直接、岡田先生と話され、遺伝子工学の松原先生もということになったと思うんですけど、当時の大学というのは学部自治で、よその学部に手を突っ込んでとか、そんなことは考えられない頃やったわけです。しかも、行革で定員はいっさい増やさない、新しいものは作らないという時代でもあったんですけど、医学部と微生物病研究所から1講座ずつ削って、新たに3講座増やして、都合5講座の細胞工学センターができることになったわけですね。

松原 岡田先生と初めてお会いしたのは、75年に阪大に来て間もない頃で、阪大で一番元気にライフサイエンスをやっているのは誰やろ、それは岡田先生やという話になって、最先端のことで一緒にできることはないでしょうかと、微研の研究室に会いに行ったんです。それが、物置だか何だか、すさまじいところにみんな入っていて(笑)。岡田先生って面白い人でね。「おまえら、何したいんや」とまず言うわけ。で、細胞融合と言われてもよくわからないから、ちょっと細胞融合のことを話してくださいというところから始まりました。岡田先生、みんなのこと大切にしながら、死にもの狂いでやっているなということはよくわかりましたね。亡くなった内田驍(つよし)先生もいました。
細胞工学センターは、山村先生、新しい研究所なんか作れるのかと誰もが思うような緊縮政策の時代に、こんな時代だからこそ作れるんやと言って始められたのは、あれは山村先生のすごいパワーですね。それで、岡田先生も何となく引っぱられて、「おまえ、やれ」と任せられて。だけど、岡田先生、立てられる計画はものすごい緻密ね。おそらく当時の官僚主導社会の中で考えられるかぎりのものを調べ尽くして作られたんですね。とにかく細胞と遺伝子を中心にして新しいことをやろうやという山村先生の考えは見事に当たりました。その計画を考えるときに、岸本先生、来てくださいましたよね。内田さんも。

岸本 そのとき、本庶佑先生もおったわけですけど、その5人で集まって、どんなものを作るかというのを月に1回ぐらい岡田先生の部屋に集まって相談しましたよね。

松原 そうでしたね。そうしたら、やっぱり谷口先生に来てもらおうと…。

岸本 それは、本庶先生が京大に移られることになって、誰かいい人を連れてこなあかんと。

松原 そうしたら、一発で谷口先生に。

岸本 なったんやけど、断られたわけですわ。岡田先生が癌研究所の菅野晴夫先生のところに頼みに行ったら、何言うとるちゅうもんで(笑)。僕が、癌研に探りに行って、谷口先生は和歌山出身やし、奥さんも大阪やし、大阪へ行ってもいいというふうな感触があったから、頼みに行ったんやけど。

松原 それで、門前払いを…。

岸本 されたけど、山村先生が僕にどうしても谷口先生が必要かと聞くから、必要ですと言うと、直接、菅野先生に頼まれたらしいですな。あとで聞いてみると、山村先生が東京へ菅野先生に会いに行って「谷口君をいただきたい」と言われたら、菅野先生、何も言えなかったらしい。

松原 僕もそれは聞きました。菅野さんが何も言わない前に「ありがとうございました」と言って(笑)、谷口さんが来ることになったと。岡田先生と山村先生の違いですね。山村先生、実に見事でした。谷口さんが来てくれて、それと内田さんと5人が揃ったのは非常に運が良かったですね。

岸本 岡田先生と山村先生というのはある面では違うわけですね。行政的な面とかは山村先生で、お互いにあらゆることで、細胞工学センターのことでも、この財団のことでも、その違いがまた相補的に相乗効果を生んでいたと思うんですね。岡田先生は山村先生のこと、ものすごく尊敬されていましたよね。肌合いは違うわけですけど。

松原 山村先生は動き出したら全部、岡田先生に任せていましたね。だけど、よく作れましたよね。当時、日本で1つしかできなかった。縮小、縮小の時代でしたからね。

ヒトの問題を解決するセンター

岸本 そういういきさつで、谷口先生に来てもらったわけですけど、どうでした?

谷口 山村先生の「天の時、地の利、人の和」って言葉がありますよね。やっぱり、この言葉が基礎づけたセンターなのかなと思いますね。当時は遺伝子工学はかなり発達していまして、おそらく遺伝子工学センターではインパクトはなかっ
たのかなと。細胞工学センターというユニークな名前が、何やろという興味を抱かせた。どなたが考えたか、知りませんけど。

岸本 岡田先生ですね。

谷口 その岡田先生ご自身の研究が、細胞工学や体細胞遺伝学を生み出していた、ちょうどそのときに、そういうもの
を作ろうという巡り合わせがあった。地の利というのは、昔、大阪のある先生が言っていましたけど、「東京からは日本が見える。大阪からは世界が見える」と(笑)。大阪には常に新しいものに挑戦してきたという歴史がありますよね。だけど、やっぱり人の和が大きかったと思いますね。皆さんの顔が輝いていたといいますか、何かやってやろうという雰囲気がにじみ出ていたところがありました。大きな研究所ではなかっただけに、チームワークもすごくよかったですね。

松原 非常に重要な基礎として、岡田先生が言っておられたのは、ヒトの問題を解決するセンターやということでした。これをもう断固として決めたんです。だから、研究のテーマもやり方も、いっさいのことがそれに向けて動いたというのが非常に良かったと思いますね。

岸本 もう1人、内田先生がおられたわけでね。残念ながら89年に亡くなられましたけど、米田先生がその研究室におられた。内田先生のことは、岡田先生にとっては大変な痛手だったんでしょうね。大番頭をなくしたわけですから。

米田 内田先生は独立して教授になられていましたけど、岡田先生と内田先生のラボはセミナーなどもいつも一緒にやっていましたので、一心同体という感じでした。日々の実験やディスカッションも一緒にしていましたから、内田先生が亡くなられて、岡田先生は「もう一遍勉強しなおした」とご自身で言っておられました。それくらい、実験は内田先生に任せておられた。

松原 内田先生を助けようとして、当時としてはまだ発達していない、がんの抗体治療をやろうと、岡田先生の払われた努力はすごかったですね。

岸本 その後、内田先生の核輸送の研究を継がれて、米田先生、えらいがんばっておられるけど、追悼シンポジウムでの講演も非常に良かったと思います。

米田 どうもありがとうございます。

岸本 当時は、岡田先生、内田先生のグループ、松原先生のグループ、谷口先生のグループ、僕のグループと、5つの研究室は、専門が違ったり、バックグラウンドが違ったりしたけど、それぞれが世界のトップレベルで、なおかつお互いに助け合って良い結果を生み出すようなところがありましたね。僕なんか、DNAのクローニングといっても何も知らないから、「谷口さんに聞きに行ってこい、我々は医者や」とか(笑)。岡田先生は財団から対談集『いのちの科学を語る』を出されていますよね。その中で、“競争、競争と競争一辺倒というのは私は好みませんなあ、自然と語り合えば面白いものが見えてくる、それが研究であって、人と競争するとか、競争一辺倒とかおかしなことになってきて、私は好みませんなあ”と語っておられたけど、そういうところがありましたね、岡田先生には。

松原 そうですね。だけど、サイエンスとして面白ければいいっていうんじゃなくて、医学部の系統ですからね。基礎研究をやっていても、問題はヒトやと。それは非常に正しかったし、細胞融合で細胞を覗いていたって、そういう気持ちでやっておられたんだと思いますよ。

谷口 もともと細胞融合を発見されたのも、ヒトのがん細胞をウイルスで殺すという実験をやっておられたときなんですよね。ヒトを意識した研究が、偶然から新しいサイエンスの分野を生み出したという典型例ですけど、まだ戦後、それほど経っていない頃ですよね。機械も試料も贅沢に使えるような時代ではなかったからこそ、見えないものが見えてきたという時代だったのかなあと。

松原 岡田先生、自分で一から始めたものだから、思い入れが一段と強かったんでしょうね。この細胞融合がどう使えるか、どうサイエンスに影響があるか、いつでも考えておられた。世界中から、ずいぶんいろんな人が訪ねてもきましたね。細胞工学センター全体でも、人が来られた数ってすごかったですよね。

岸本 当時、大阪大学に外国からでも日本からでも誰か人が来ると、見学ルートの1つが細胞工学センターでしたな。

米田 毎日のように、海外から誰かが来られていたような気がします。2階に見学に来られたら、マイクロインジェクションの装置を私が説明しないといけないので、毎日のように誰かに説明していました(笑)。

お弟子さんを非常に大切にされた

岸本 追悼シンポジウムの後のメモリアルパーティーの弔辞で、松原先生が話されていましたよね。岡田先生が欧米で生まれた人やったら、ノーベル賞を当然もらっていたやろと。しかも、シンポジウムで市原明先生が話されたように口下手やし、英語はもうひとつ下手やから(笑)。だけど、84年にミルスタインらがノーベル賞を受賞した「モノクローナル抗体の作製」は、細胞融合が基本になければできないわけですよね。欧米の人間やったら、英語がもっと上手やったら…。

松原 私が言うのも変だけど、英語は下手でしたね。

米田 岡田先生も内田先生も下手でした。弟子もみんな下手です(笑)。

松原 当時は、英語の上手い下手とかじゃなく、ほんとにいい仕事をして世の中にアピールしていこうという気分がみなぎっていた時代でしたから、今とはずいぶん違いますけどね。

米田 細胞工学センターができた頃、岡田先生がノーベル賞の候補にノミネートされたということで、秋のノーベル賞受賞者発表の日に多くの新聞記者がご自宅にも押しかけて、奥さんは行き場がなくなってお風呂場に隠れておられたと聞きました。

岸本 シンポジウムのとき、正面に映されていた岡田先生の写真は穏やかな顔で、僕らも怖い顔というのを知らんのやけど、松原先生の弔辞では、“避雷針”という怒られ役を研究室に作っておかないといかんかったと言っておられたけど、そうなんですか。

米田 私も岡田先生からほんとに怒られた経験がなくて、目加田(英輔)先生が「たぶん、オレが怒られた一番最後の人間やろう」と言われています。怒られた経験があるのは、私よりも2、3年上の人ぐらいまででしょうか。田中(亀代次)先生が実験中に何度も怒られたらしいです。「劣等生でした」といつも言われるんですけど、田中先生は岡田先生の最初の大学院生でしたので、やっぱり研究室を立ち上げられたときは、かなりピリピリされていたみたいですね。

谷口 僕は、岡田先生が怒ったのをどこかで見た記憶があるんですけどね。なんかこう怒ったら、怖いだろうなという感じはしましたね。でも、あんまり後に残らなくて、サラッとしておられるんじゃないですか。

米田 そうですね。

谷口 お弟子さんをものすごく大切にされましたよね。

米田 はい、非常に。

松原 それは岡田先生がずいぶん長い間、苦労されたから、弟子が育ってくれるのを、殊のほか、喜ばれたんじゃないかと思います。

谷口 座右の銘は「一座建立」なんですね。あれは、おそらく岡田先生の思いが凝集している言葉なんでしょうね。

米田 確かにそうです。細胞工学センターができてから、ほんとにいろんな人が来られるようになったので、「一座建立」が細胞工学センターで実現できたなと思っておられたと思います。

松原 その頃から、岡田先生は別の面でもいろいろ頼りにされるようになって、研究室で考えに没頭してばかりはいられなくなったかもしれないけど。

米田 そうだったと思います。しょっちゅう東京などに出張されていましたので、研究室に顔を見せるのも週に1回あったかなという、そんなときもありました。

谷口 岡田先生からいただいた教訓がありましてね。会議とか、いろんなところに呼ばれるでしょ。「谷口君、断るのも見識だと思いなさい」と言われたのを覚えています。若いのだから、研究をしないとダメだという強いメッセージですね。いろいろと親身になって相談に乗っていただきました。

松原謙一 氏

松原謙一 氏

大阪大学 名誉教授

1934年、東京都生まれ。56年東京大学理学部卒業後、61年同大学院化学系研究科修了。金沢大学医学部助手、九州大学医学部助手、助教授を経て、75年大阪大学医学部教授。64~68年にはハーバード大学、スタンフォード大学に留学。82年大阪大学細胞工学センター教授、87年同センター長。98年奈良先端科学技術大学院大学客員教授、国際高等研究所副所長。日本分子生物学会会長などを歴任。99年には遺伝子機能研究の国内初のベンチャー企業、DNAチップ研究所を設立。専門分野は分子生物学。DNA組換えによるB型肝炎ワクチンの開発など日本におけるヒトのDNA研究の先駆者。国際ヒトゲノムプロジェクトの日本での立ち上げと推進役。受賞は高松宮妃癌研究基金学術賞、科学技術庁長官賞、紫綬褒章、文化功労者ほか。

谷口維紹 氏

谷口維紹 氏

東京大学大学院 医学系研究科 教授

1948年、和歌山県生まれ。71年東京教育大学理学部卒業。78年チューリッヒ大学大学院博士課程修了後、(財)癌研究会癌研究所に入所。80年主任研究員、83年生化学部部長。84年大阪大学細胞工学センター教授。95年東京大学医学部教授、97年同大学院医学系研究科教授、07年同研究科附属疾患生命工学センター長。内閣府総合科学技術会議専門委員などを歴任。専門分野は免疫学。世界で初めてインターフェロンβの遺伝子クローニングに成功。生体防御のメカニズムや細胞のがん化の解明に貢献する。受賞は野口英世記念医学賞、朝日賞、ロベルトコッホ賞、慶應医学賞、日本学士院賞、ペツコラー・米国癌学会癌研究賞ほか。米国科学アカデミー外国人会員。

米田悦啓 氏

米田悦啓 氏

大阪大学大学院 生命機能研究科 医学系研究科 教授

1955年、奈良県生まれ。81年大阪大学医学部卒業後、85年同大学院医学研究科修了。86年同大学細胞工学センター助手、91年助教授、92年細胞生体工学センター教授、93年医学部教授、99年大学院医学系研究科教授、02年大学院生命機能研究科教授(兼任)。専門分野は細胞生物学。核-細胞質間物質輸送の分子機構の解明と、その知見をベースに様々な細胞機能の理解に向けたアプローチを進める。

岸本忠三 理事長

岸本忠三 理事長

(財)千里ライフサイエンス振興財団

1939年、大阪府生まれ。64年大阪大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了。70~74年米国ジョンス・ホプキンス大学研究員及び客員助教授。79年大阪大学医学部教授(病理病態学)、83年同大学細胞工学センター教授(免疫細胞研究部門)、91年医学部教授(内科学第三講座)、95年医学部長、97年総長。04年退任、名誉教授。総長退任後も同大学院生命機能研究科で研究を続ける。内閣府総合科学技術会議常勤議員(04~06年)などを歴任。07年4月より(財)千里ライフサイエンス振興財団理事長。専門分野は免疫学。免疫に関わる多機能な分子、インターロイキン6(IL6)の発見とその研究で世界的に知られる。IL6の受容体を抗体によってブロックする抗体医薬の研究も進め、関節リウマチ治療薬の開発にも貢献する。受賞は朝日賞、日本学士院賞・恩賜賞、ロベルト・コッホゴールドメダルほか。文化功労者、文化勲章受章。日本学士院会員、米国科学アカデミー外国人会員。

財団のこれから変えなくてはならないこと

岸本 岡田先生は、産学連携とか、そういうのは苦手だったですね。そういう点では、山村先生と違うんですけど、山村先生の志を継いで、この財団の理事長になられました。

松原 財団ができたとき、岡田先生のパーソナリティからしてなんで理事長なんて引き受けるんですか、と言ったんですよ。全然、似合わないと思ったから。「いろいろなことがあって、引き受けなあかんのや」と言われたんですが、人間関係を重んじる方でもありましたからね。よく17年もされました。

岸本 セミナーとか、技術講習会とか、ネイチャー・カレッジとか、そういう基本的ないいことをたくさんされましたよね。だから、僕はそれを引き継いで、変えてはならないことと、変えなくてはならないこと、その両方を考えないといかんと思っていましてね。たとえば、変えていくことでは、この財団は、大学と産業界、製薬企業との交流をもっと盛んにするようなこともしないといかんやろとかね。松原先生はベンチャーをやっておられますけど、どう思われますか。

松原 私の個人的な感じですが、ライフサイエンスのベンチャーはITなんかのベンチャーとは全然違うものだということを世の中によくわかってもらわないと。

岸本 すぐには結果が出ないものですからね。

松原 そうなんです。研究、研究と続けていくから、何かが出てくる。何かを作るために研究するんじゃ何も出てこないんですよ。人さまと同じものができるのがオチですね。

岸本 だけど、アメリカのベンチャーを日本の会社が買いに行ったりしていますよね。なんで日本には買い取ろうかと思うようなものができないのか。この前の対談では、タケダの武田國男会長に日本の池の中には魚がおらんのと違いますか、と言われましたけど。

松原 僕の感じでは、エサが足らん。少額でもいいんですよ。ずっとやらせ続けるようなエサのやり方をすれば育つ。3年経ったらもう終わり、今度はこれや、というようなエサの撒き方をしているとダメですね。この財団でしていただけるなら、大学から出てきたものを企業に仲介する、マリッジブローカーみたいな役割が重要だと思いますね。あんたらにはまだわからんやろけど、こんな大事な魚がおるんや、とアピールするようなことをぜひ進めてください。

岸本 それから、そういう企業の研究者との交流の場をもっと提供していくことが、ここの1つの役割かなと。それが、岡田先生から僕にバトンタッチして変わらないかんところだと思っているんですけどね。

自由に研究できる雰囲気があった

岸本 だけど、80年代の細胞工学センターには若い人もたくさん集まってきて、熱気がありましたよね。玄関入ったら、僕の怒鳴っとる声が聞こえるちゅう(笑)。その頃の盛り上がりから考えると、何かしら学問もそろそろ終わりに近づいたんかなと。僕が終わりに近づいただけ(笑)なんやろけど。

谷口 時代が、よくない時代になってるんじゃないですか。

岸本 そういう賑やかなところが、どこにもないですよね。ワーッとあんなにやるようなところ。この頃、若い人もおとなしいですよね。

米田 あの当時は、1週間、朝から晩まで、どの研究室もずっと電気が点いていました。

松原 必ず誰かいましたね。

米田 海外に講演に行くときに、細胞工学センターの写真を撮ってスライドにしていったんです。これは日曜日の写真だと言って見せたら、向こうの人がびっくりしまして。全階に電気が点いていました。

谷口 それ別に、毎日来て実験しろ、と言ってるわけじゃないんです。自分たちが来たいから来ているわけですよ。

岸本 日本中から若い人が集まってきましたよね。

松原 駐車場の車は、北海道から沖縄までありました。それも、細胞工学センターの特色の1つでした。

米田 建物もものすごく実験がやりやすい構造になっていましたね。

松原 あれ全部、岡田先生がデザインしたんですよ。ベストのものを作ろうと、ものすごい意欲で取り組まれたんですね。

岸本 この頃、そういう盛り上がりとか、熱気とか、なかなかないらしいよ。それは、何がおかしくなったのか。それでいいのか。年をとってきて、昔を懐かしむようになったらいかんのやけど(笑)。

谷口 やっぱり1つには、サイエンスの市場原理主義みたいなのがあって、競争的資金が得られるような分野にみんな集まるでしょ。学生の意識もそういうところに向いちゃうわけですよ。あるいはタコツボ現象とか言われていますけど、狭い自分の分野に閉じこもって好きなことをやっていると。お互いに切磋琢磨してなんとかしようとか、誰もやらないことをやってやろうとか、そういう気概がなくなってきたという感じはしますね。岸本先生が新聞でもおっしゃっていましたが、研究というのは壮大なムダだっていうね。それこそが、サイエンスの真髄だと思うんです。ところが今の世の中、それとはまったく逆の方向に向かっているように思いますね。

岸本 いかに役に立つかとか…。

谷口 岸本先生が総合科学技術会議で“モノから人へ”とキャッチフレーズを出されているのに、それが実際に生かされているのか、疑問ですよね。やっぱり人ですよ。人が育たないと、サイエンスは絶対に発展しない。

米田 私も今の若い学生さんを見ていると多少不満が出てきます。うまくいかなくても、工夫して何としても結果を出すぞという意気込みのある学生が少ない気がします。

谷口 壮大なムダなんて言うと、この行革の時代に何を言ってるんだ、ということになるでしょう。その流れがどこかで変わらないと。

松原 おじさんたちがあまり面白がってやっていない時代になったというのは確かです。忙しくて、フーフー言って、学校にも、研究室にも寄りつかないしね。それは若い人にも伝わりますよ。

谷口 デューティがすごく増えたと思いますね。

松原 細胞工学センターのときはデューティはなかったですよ。実になかった。

谷口 そうでしたね。岡田先生が背負っておられたのかもしれませんけど、おまえら、自由にやれという雰囲気がにじみ出てましたものね。

松原 マネージメントはオレがやるから、みんな研究を一生懸命やってくれというのは、非常にしっかりしていましたね。

谷口 昨年、財団の100回記念セミナーで、岡田先生の講演をじっくり聞かせていただきました。古いデータを見せながらお話をされたのには、ものすごく重々しさを感じましたね。

岸本 岡田先生は、山村先生がつくろうとされたこの財団を引き受けて、何がなんでもこれを守ってちゃんとやらんといかんという気持ちを常に持っておられた。その気持ちに応えていかないといかんと思っています。今日はどうもありがとうございました。

 

EYES

故岡田善雄先生 追悼の辞
岸本忠三 (財)千里ライフサイエンス振興財団理事長

大阪大学名誉教授、日本学士院会員、千里ライフサイエンス振興財団前理事長、岡田善雄先生は、平成20年1月16日早朝、解離性大動脈瘤のため急逝されました。79年のご生涯でありました。奥様のお話ですと、前日までとても元気にされておられたようで、当日も外出の予定がおありで、それを楽しみにされていたとのことです。ご家族はもちろんのこと、訃報に接しました私どもの驚きと悲しみは計り知れません。岡田先生のあのお元気そうなお姿が私どもの脳裏から消えることはないと思います。日本の生命科学、とりわけ細胞生物学の進展にとりまして、これほど大きな損失はないと言わざるをえません。
岡田先生は、昭和3年3月10日広島県でお生まれになり、昭和27年3月に、大阪大学医学部を卒業されました。故郷に戻って開業することも考えておられた岡田先生は、学生時代から出入りされていた同大学微生物病研究所防疫学部門の深井孝之助 教授に誘われ、深井研究室でウイルス感染に関する研究を開始されました。同年7月には、同研究所助手に採用され、昭和34年12月に医学博士(大阪大学)の学位を授与され、昭和37年4月には、同研究所助教授に昇任されました。さらに、昭和47年10月に、同研究所教授となられ、1つの研究室を主宰されるようになりました。

昭和57年4月、大阪大学細胞工学センター(現大学院生命機能研究科)の新設に伴い、昭和57年4月から昭和62年3月まで初代センター長として管理運営に尽力され、細胞工学センターの国際的隆盛の基礎を築かれました。平成3年3月大阪大学を停年により退官され、同年4月大阪大学名誉教授の称号を授与されました。大阪大学退官後は、財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長に就任され、平成19年3月に理事長を辞されるまで17年間にわたって理事長として、生命科学に関する学術・産業の発展に尽力されました。

● ● ●

岡田先生は深井研究室で研究を開始されて2年後の昭和30年の夏に、細胞融合現象との運命的な出会いをされます。ウイルスで癌を治せないかと考えて研究をされていた岡田先生は、当時、微生物病研究所で発見された新種ウイルスHVJ(Hemagglutinating Virus of Japan 別名・センダイウイルス)を、エールリッヒ腹水癌細胞を播種させたマウスの腹腔に摂取するという実験をされていました。高濃度に濃縮したHVJを接種されたところ、マウスの腹腔には、それまで見たことも無いような巨大な細胞ができており、それらは数え切れない数の核を持った多核細胞であることがわかりました。これが世界で最初の細胞融合現象の発見であります。この成果を、昭和32年に論文に発表されました。

癌を治すという当初の目的とは異なる結果となったわけですが、細胞融合を世界で初めて観察された岡田先生は、その現象の持つ面白さに惹きつけられ、細胞融合現象の解析に没頭されていきました。その代表的なご研究の1つが、細胞融合反応を利用した細胞内高分子物質注入法の開発であります。目的とする高分子物質を生きている細胞に注入し、その物質の生理活性を生きている細胞の中で発現させることで、その物質の細胞内での特性を解析することを可能にしたばかりではなく、これを通して細胞の構造と機能を、生きている細胞を用いてより直接的に研究する道を拓いたものであり、画期的な技術革新となりました。

● ● ●

さらに、先生はこれらの技術を応用し、多数の輝かしい成果をあげられました。ヒト常染色体性劣性遺伝病の1つである「色素性乾皮症」は、DNA除去修復機構に欠損を持つ遺伝病です。先生は、HVJ法を用いてこの細胞に、バクテリオファージ由来の、除去修復機構の第1ステップに働くエンドヌクレアーゼを注入すると、色素性乾皮症患者細胞のDNA修復能が正常レベルにまで回復することを発見され、色素性乾皮症という病気はDNA除去修復の第1ステップに異常を持つことを明らかにされました。

世界的にも英国のヘンリー・ハリスは、ヒトとマウスの細胞を融合させるとヒトの染色体が1つひとつ欠落していく現象を発見し、ヒトの染色体地図の確立につなげましたし、セザー・ミルスタインは抗体産生細胞とミエローマ細胞の融合に成功し、モノクローナル抗体の作製という後のノーベル賞につながった研究を完成させました。これらはすべて、岡田先生の発見された細胞融合法があって初めて可能になったものであります。

このように、HVJによる細胞融合現象を世界で初めて発見されたのをきっかけとして、細胞融合を基礎とする体細胞遺伝学、細胞工学と呼ばれる新しい学問分野は急速に発展し、今日のバイオサイエンスの隆盛は岡田先生のご業績を抜きにしては語ることができません。

これら一連のご業績により、昭和47年朝日賞、昭和54年藤原賞、昭和55年日本学士院恩賜賞・学士院賞、昭和57年文化功労者、昭和62年には文化勲章を授与され、平成5年日本学士院会員になられ、平成12年勲一等瑞宝章が授与されました。

● ● ●

最後に、岡田先生のご研究に対して持っておられた姿勢とお人柄について一言申し述べます。先生は、他人の発想で研究すること、他人がやり始めた研究結果に基づいて研究することを何よりも嫌われ、自分自身の研究から生まれた結果を最も大切にし、自分自身の発想で研究を展開することの重要性を常に口にされていました。そのようなスタンスで研究をしているかぎり、研究室における日々の研究はまったく自由に進めることを認めておられたようで、自由な発想とそれを生む自由な雰囲気を大事にされていたようであります。
岡田先生は、書を好まれ、一筆お願いしたときには、「一座建立」(いちざこんりゅう)という言葉を好んでしたためておられました。茶道の世界の言葉で、いろんな方々を一座にお招きし、1つのことを成し遂げるという意味であるとお聞きしております。この言葉どおりに、岡田先生の周りには、いろんな考え方、背景を持つ研究者が数多く集い、型にはまらない、幅広い研究が展開されていったように思います。門下生をはじめ多くの方々に慕われ、岡田先生は、研究者として誠に幸せな人生を送られたのではないかと思います。ここに、謹んで岡田善雄先生のご冥福をお祈り申し上げ、心より哀悼の意を表したいと思います。

*去る2008年5月19日、当財団、大阪大学微生物病研究所、大阪大学大学院生命機能研究科等の主催により開催されました「岡田善雄先生追悼シンポジウム」において、「追悼の辞」として話されたものを掲載しました。

LF対談一覧に戻る