LF対談
人が集い、挑戦が始まる……
ライフサイエンス分野の 新たな役割をめざして No.90-91(2020.10)
公益財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
岸本忠三 理事長
医薬基盤・健康・栄養研究所 理事長/大阪大学 名誉教授
米田悦啓氏
2020年は、千里ライフサイエンス振興財団の設立30周年にあたります。
これを記念して今回は、2007年より当財団を率いてきた岸本忠三理事長に、
自身の研究の歩みや、財団のこれまでの成果とこれからの課題などを聞きました。
また当財団の活動に深く関わってこられた
米田悦啓氏(医薬基盤・健康・栄養研究所 理事長)にインタビュアーをお願いするとともに、
財団や岸本理事長への期待のことばもいただきました。
米田 千里ライフサイエンス振興財団の設立30周年、おめでとうございます。
岸本 どうもありがとうございます。
米田 今回は30周年記念号での対談ということで、いつもの記事と趣向を変え、私から財団理事長の岸本先生に、いろいろお話を聞かせていただくことになりました。
岸本 米田先生は、私の前任で初代理事長をつとめられた岡田善雄先生(大阪大学名誉教授)の愛弟子でおられますし、いちばんご縁のある方と思っています。
米田 ありがとうございます。
「核心をついた研究」でつながる免疫のしくみ解明と創薬
米田 まずは、やはり岸本先生の研究の歩みからお聞きしたいと思います。大阪大学医学部時代、岸本先生は山村雄一先生(大阪大学名誉教授、千里ライフサイエンス振興財団設立準備委員会会長)の授業に感銘を受けて、研究者の道に入られたと理解しています。
山村先生のどんなところに惹かれたのですか。
岸本 いろいろな講義を受けていたなかでも、山村先生の講義はものすごく理路整然としていました。それを機に僕は免疫への興味をもつようになりました。研究室に入ってからも、山村先生は具体的に「これをしなさい」とは言わないのだけれど、僕ら若手のやっていることが本質的に意義のあることかどうかをすべてわかっておられました。
はじめ僕は免疫の研究をしながら医師として臨床にもいたけれど、患者さんの容態が悪いときに研究のことは考えづらく、両立がむずかしくなってきました。そんなとき山村先生に「核心をついた研究はかならず人に役立つようになる。根本的な研究をすれば、病気の解明にもつながる」と言葉をかけてもらい、研究に専念する決心がつきました。
米田 それで岸本先生は、米国のジョンズ・ホプキンス大学の石坂公成先生(ラホイヤ・アレルギー免疫研究所名誉所長)のところに留学されて、そしてまた大阪大学に戻ってこられたのですよね。
岸本 そうです。石坂先生は、アレルギーの原因がIgEという抗体がつくられるためであることを突き止めた方です。そしてジョンズ・ホプキンス大の石坂先生の下で研究している時に、先生から京都大学に招聘されたので一緒に来ないかというオファーをうけました。なんでも、助教授(現在の准教授)のポストを用意してあるとのことでした。
その時、山村先生がわざわざ僕のいたボルチモアまでこられて「阪大に帰ってこい」と言われました。阪大では、まだ助手(現在の助教)のポストさえも就けるかわからないような状況です。でも、そのとき山村先生から言われたのです。
「われわれは、岸本を必要としているんだ」と。「きみにとっていい場所だからきたらいい」というのでなく「きみのことが必要だからきてくれ」ということです。その山村先生のことばに心打たれて、僕はジョンズ・ホプキンス大学から阪大に戻ることに決めたんです。
米田 感銘を受けられたわけですね。
岸本 山村先生は「人を育てよ」とも言っておられました。「たとえ、ある研究者がノーベル賞級の研究をしても後世の教科書には1行残るだけだ。けれども、その研究者が人を育てれば、その人がまた次世代の人を育ててといったように拡大再生産されていく。だから人を育てることが大切なんだ」と。
山村先生はそうした「絵」を描いていた。だからこそ1982年に、僕も岡田先生も米田先生も所属した大阪大学細胞工学センター(後に、大阪大学大学院生命機能研究科に発展)をつくられたわけです。
米田 細胞工学センターは、岸本先生と初めてお会いさせていただいた場でした。1986年に私は助手に任用されたのですが、助手になって初めて岸本先生にご挨拶した時の事は、いまも明確に覚えています。センターの大会議室で新年会があって、岸本先生に「今度、助手になった米田と申します」と挨拶すると、「おぉ知っとるよ」と言ってくださって。「あの岸本先生が、自分のことを知ってくださっている!」と、30歳だった私には、とても励みになりました。
岸本 そうでしたか。顔と名前を知っておくっていうのは政治家がいちばん得意かもしれないけど(笑)。山村先生もまた、若い人の顔と名前をすべて知っておられました。
米田 山村先生から「核心をついた研究はかならず人に役立つようになる」と教わったとのことでしたが、その教えどおり、岸本先生は基礎的で根元的な研究を進めて、最終的には人の役に立つ医薬品を確立されました。
基礎的な研究では、インターロイキン-6(IL-6:Interleukin-6、P7〜8のEYESも参照)さらに、その受容体を発見され、細胞内シグナル伝達のしくみなどを解明し、その後は製薬企業とともに治療薬「アクテムラ」の開発までたどり着かれた。大きな潮流といいますか、世界の流れをつくり上げられました。
岸本先生がみずからの研究の歩みで、いちばん嬉しかった瞬間というのはどういうときでしたか。
岸本 どこっていうことはあまりないけれど、大変でもあり、おもしろくもあったのは、アクテムラの開発につながっていくところでしょうか。IL-6受容体に結合する抗体をつくって、難病の若年性突発性関節炎を患い発熱して体が動かなくなった患者さんに投与してみると、見る見るうちに症状が改善されていきました。また、IL-6の過剰生成で炎症症状が起きるキャッスルマン病の患者さんについても、抗体投与から2日ぐらいで熱が下がり、症状が大きく改善されていきました。こうした改善が起きるのを目の当たりにしたときは、やはり研究のおもしろさも感じましたね。
米田 とてもよくわかります。
岸本 たしかに、IL-6が見つかって、受容体も見つかって、その後、それらのシグナル伝達の経路がわかっていくといった一連の研究の展開も、僕にとってはすべて大事ではあります。けれども、やはり病気や薬の副作用などを抱えている患者さんにアクテムラを使ってもらい、症状が大きく改善されることは僕にとっては大きいのです。
がん治療でおこなわれるようになったCAR-T細胞(Chimeric antigen receptor-T cell)輸注療法では、副作用として多量のサイトカインが放出されて発熱や血圧低下でショック状態になるという症状が出ることがありますが、これに対してもアクテムラが効くことが示されました。そこでCAR-T療法にはアクテムラを併用することになっています。
今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19:Corona Virus Disease 2019)でも、重症肺炎に対してアクテムラの効果があるかと自分でも期待しましたが、こればかりはメカニズムが複雑で、そう簡単にはいかないかもしれません。なにもかもうまくいくというのも、あまりによすぎる話でしょうかね(笑)。しかし、IL-6がPAI-1(Plasminogen Activator Inhibitor-1)という蛋白を誘導して血栓を作る、それをアクテムラが抑えるという現象を見い出しましたので、僕はアクテムラがCOVID-19にも有効だと思っています。
米田 アクテムラは日本のみならず、世界で広く使われる薬となりました。IL-6発見からアクテムラ開発までの一連の成果が、ここまで世界的に波及していくことを岸本先生自身は予想されていたんですか。
岸本 細胞工学センターから古巣の内科に戻って、患者さんとも向き合いながら研究していた時代から、「治療にはつながるだろう」と感じてはいましたよ。でも、その先のできごとが大きかった。中外製薬の社長だった永山治さん(同社名誉会長)にデータを見せると、すぐに創薬に向けて「やりましょう」と乗ってくれました。そして、永山さんは2001年すぐに抗体医薬を作るために細胞培養のための10tタンクを8基製造しました。これが日本で最初の抗体医薬の大量生産につながります。それをみてスイスのロシュが中外製薬と提携しました。これで、アクテムラが使われる地域が日本だけでなく、世界に大きく広がることになりました。永山さんの「やりましょう」という決断がなければ、ここまで大きな展開にはならなかっただろうと思っています。 基礎研究の成果があったとしても、やはりその後の医療への応用は製薬企業などの企業が関わらなければ成り立ちません。大学と企業と、両方がおなじような重要な役割をもっているものと感じています。
財団設立の原点にある「赤ちょうちん」への思い
米田 岸本先生が理事長をされている千里ライフサイエンス振興財団の歩みについても、あらためて聞かせていただきます。1990年に財団が設立され、2007年に理事長が初代の岡田先生から、岸本先生に代わられました。まず、そもそもの財団設立の経緯はどういったものだったのでしょうか。
岸本 原点にはやはり山村先生のお考えがあります。山村先生は「この北摂の地に『産』と『学』が連携する、国際的な研究開発都市をつくりたい」と考えておられました。大阪をはじめとする関西で「産」といえば、創薬や製薬でしょう。そこで、さまざまな製薬企業に声をかけて、研究拠点をつくろうとされたのです。それが、いま茨木市から箕面市にかけてできた国際文化公園都市「彩都」です。財団設立の前段にはまずこれがあります。
そうした研究開発都市をつくるとなると、さまざまな研究者たちが情報交換できるような場も大切になってきます。そこで山村先生は、まるで「赤ちょうちん」のような、研究者たちが集い、飲み食いもしながら語りあえるような場をつくろうとされました。つまり、その「赤ちょうちん」の存在こそが、この財団というわけです。
けれども、山村先生はすでにご高齢で車いす生活をされていて、この財団が設立した1990年7月のわずか1か月前に、残念ながらお亡くなりになりました。そこで、山村先生も懇意にされていた岡田善雄先生が、初代理事長に就かれて財団がスタートしたわけです。
米田 そういう経緯で発足したのですね。
岸本 ただ、北摂の地に研究開発都市をつくるという話は、バブル崩壊と重なったりして、なかなかうまく進みませんでした。どうするか。岡田先生や僕たちが知恵を絞って考えたのは「日本人は『官』を好む。国の研究所をこの地に呼んだら人が集まるだろう」ということでした。それで、僕とか高杉豊さん(大阪府副知事〈当時〉)とか、いろいろな人たちが努力した。その結果、2004年「彩都」に、いま米田先生が理事長をされている医薬基盤・健康・栄養研究所の前身にあたる国立医薬品食品衛生研究所大阪支所を呼べることになったのです。
米田先生が理事長になってからは、ベンチャーや企業研究所などでつぎつぎと彩都の区画が埋まっていきましたね。
米田 はい。いまはすべて埋まっています。岸本先生たちのご尽力の後で、私は医薬基盤・健康・栄養研究所の理事長になり「彩都」で過ごすことになったわけですが、周囲に関連分野のベンチャーなどがあるので、居心地よくさせてもらっています。
岡田先生から岸本先生へのバトンタッチはどうだったのですか。それはもう「阿吽の呼吸」みたいなものだったのですか。
岸本 岡田先生から理事長の役を引き継いだのが2007年で、私が阪大の総長を退任してから国の総合科学技術会議の議員をつとめて、その後のことでした。岡田先生からは、「総長を退任したら理事長をしてくれ」とは言われていました。「山村先生から引き継いだのだから、今度は岸本に引き継ぐというのが当然だ」と当初から考えておられましたね。
米田 財団の所在地であり、この対談をしている場所が「千里ライフサイエンスセンタービル」です。「山村雄一記念ライフホール」と名のついた大広間もあります。このビルも、全国的に知れわたるようになってきたのではないでしょうか。
岸本 そう思います。ビル自体は、2007年にビル運営会社に売却(注:不動産信託受益権の売却)となったのですが、そのときの契約条件に、「千里ライフサイエンスセンタービルという名称は残すこと」を盛り込んだのです。名前は変えたらだめだという強い思いがありました。いまもこのビルには、診療所や学習塾やレストランなどさまざまなテナントが入居していて、繁栄しています。それは「千里ライフサイエンスセンター」という社会的プレステージ、つまり名声が上がってきているからだと思います。
岸本忠三 理事長
公益財団法人 千里ライフサイエンス振興財団
1939年、大阪府生まれ。64年大阪大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了。70〜74年米国ジョンズ・ホプキンス大学研究員及び客員助教授。79年大阪大学医学部教授(病理病態学)、83年同大学細胞工学センター教授(免疫細胞研究部門)、91年医学部教授(内科学第三講座)、95年医学部長、97年総長。2003年総長退任、04年名誉教授。現在も同大学免疫学フロンティア研究センターで研究を続ける。内閣府総合科学技術会議常勤議員(04〜06年)などを歴任。07年4月より(財)千里ライフサイエンス振興財団理事長。専門分野は免疫学。免疫に関わる多機能な分子、インターロイキン6(IL-6)の発見とその研究で世界的に知られる。IL-6の受容体を抗体によってブロックする抗体医薬の研究も進め、関節リウマチ治療 薬の開発にも貢献する。受賞は朝日賞、日本学士院賞・恩賜賞、ロベルト・コッホゴールドメダル、クラフォード賞、唐奨(Tang Prize)、日本国際賞、キング・ファイサル国際賞、慶應医学賞ほか。 文化功労者、文化勲章受章。日本学士院会員、米国科学アカデミー外国人会員。
コロナで現れ出た日本の研究の課題
人が集いプロジェクトを始める場を
米田 いまの千里ライフサイエンス振興財団の事業についても伺いたいと思います。
岸本先生が理事長になられてから、2年に一度の「国際シンポジウム」を発足させたり、先端研究者が集う「千里ライフサイエンスセミナー」を充実させたりしてこられました。
岸本 いまは新型コロナウイルス感染症の影響で、直接みなさんが集っての催しものはむずかしくなっていますが、それまでは毎回、多くの参加者にご来場いただいています。企画委員の先生たちに毎回、セミナーのテーマを一生懸命に考えていただいています。講演を依頼した研究者のみなさんからも、ほぼ断られることがありません。「東京でもこういったセミナーをやっていただいたらいいのに」と言われることもあります(笑)。
米田 小学生や高校生などの、次世代を担う子どもたちを対象にしたイベントもあります。
岸本 千里ライフサイエンスセンタービルで子どもたちが研究者の話を聞くこともあるし、協力してくれる研究者が大学のキャンパスに子どもたちを連れて行ってくれることもあります。それから一般の方々たちを対象とした「市民公開講座」や「フォーラム」といった催しものも、たいてい満員となります。研究者の方もそうでない方も、老若男女のみなさんに満足していただけることを願っています。
米田 山村先生が目指されていた「赤ちょうちん」のような役割というのは、引き続きいまも果たされているわけですね。
岸本 そういえるとも思います。たとえばセミナーでは、いつも来場者の6〜7割ほどが製薬企業など産業側の方々です。情報交換をする場としては、この「赤ちょうちん」はいまも役立っていると思います。
でもその反面、問題意識もあって、いろいろ考えていかなければならないことはあるとも思っています。
米田 たとえば、どのような問題意識ですか。
岸本 大阪の地からだんだんと製薬企業が離れていっていることです。山村先生が当初お考えだった「北摂の地に企業の研究所を集めて、みんなが集って価値あるものを創りだしていこう」といった雰囲気は、残念ながら徐々になくなってきている感はあります。そういった点で、どのようにこれから「赤ちょうちん」を発展させていくかは、むずかしい問題だと思っています。なにに焦点を合わせて、どのようにやっていくか……。
米田 なかなか大変だと思います。
岸本 セミナーなどの催しものがいつもほぼ満員となるのは、これまでに積み上げられてきた千里ライフサイエンス振興財団のプレステージによる部分が大きいと思います。けれども、そうしたプレステージが小さくなって、だれも集まらないようになったら、この財団の役割が終わってしまうことになります。
どのような新しい取り組みを始めて、どういう方向に財団やその活動を発展させていくか、考えていかないとなりません。おなじことを繰り返しているだけでは、だんだんと縮小していくだけなので、時代の要請にどういう風に応えていくか、なにを生み出していくかはあらためて考える必要があると思います。
たとえば、医療分野の研究開発や助成などを担っている日本医療研究開発機構(AMED:Japan Agency for Medical Research and Development)の「大阪版」みたいなものを目指していくとか、創薬研究のうちの具体的な一部分を担うとか。財団の次代を担う人たちをも巻き込んで、新しい方向性を打ち出していかないと。いまのプレステージがあるうちにね。
この30年間のプレステージで、まだ人は集まってくれます。ここを新たな出発点として、どんな新たな方向に進んでいくか。僕らは岐路に立っているのだと思います。
米田 岸本先生の言われることはとてもよくわかります。いま、先生からも「AMEDの大阪版」といったお話が出ましたが、研究の連携をパッとおこなえるような土台が日本には欠けていると思います。とくに、新型コロナウイルスをめぐる研究のあり方をめぐっては、日本の立ち遅れ感をとても感じます。
岸本 たしかに、コロナに関する論文を見てみると、中国発のものが圧倒的に多く、日本発のものはほとんど見られません。新しいことにチャレンジすることが日本では遅れているということを、この件でも実感しますね。
米田 その通りだと思います。コロナによって、日本はこうした不測の事態が生じたとしても、その事態に対応した研究プロジェクトが直ぐに立ち上がらないということがよくわかりました。そういう準備を普段からいかにしておくかが、日本の大きな課題だと、いまは思っています。
たとえば、財団のある千里ライフサイエンスセンタービルにさっと研究者たちが寄り集まって、「こういうワクチンを創りましょう」とか「こういう薬を創りましょう」といったようなディスカッションができるようになれば理想的ではないでしょうか。方向づけがなされたら、あとは製薬企業や研究者がそれぞれ役割分担をすればいい……。
岸本 いま、われわれの財団はライフサイエンスの知識をみなさんに知らせる役割を中心としているけれども、米田先生のおっしゃるように人を集めてプロジェクトを始めるような役割をもつことも大事なことだと思います。そうした機能がないと、そのうち製薬会社もほかの企業も財団に関心をもたないようになっていくでしょうから。企業もプロジェクトに参加できるようなことを考えていかなければなりません。
米田 この財団の特徴は、どこかの企業だけが得するようなことにはならない、中立的な立場にあることだと思います。
この財団だからこそ、中心的あるいはハブ的な役割を果たせるのではないでしょうか。
岸本 これまで築いてきたものをもとに、これからどんなことを築いていくか……。課題ですね。
核心的なチャレンジの種は
いまも昔と同様に多くある
米田 ライフサイエンスのこれからについても、お話をお聞きしたいと思います。岸本先生がたどってきた研究者としての歩みと、いまの若い研究者たちの研究の進めかたとを見比べると、いまの若い人たちはちょっとかわいそうな気もしているのです。
岸本先生がIL-6の発見からご自身の研究を発展させていかれたころとちがって、いまの若い研究者たちは、いきなり医薬品のような、なにかすぐに人に役立つものを開発するための研究から入らないといけない環境になってしまっている気がします。社会の要請ということもあるでしょうが、「まず創薬にとりくまないといけない」といった感じがあって……。
岸本 わからないことがまだ山ほどある、といった状況そのものは、僕のころもいまもおなじなんだとは思いますよ。たとえば、「人間や生きものはなんで齢をとるのか」といった根元的なところには、まだ謎がいっぱいありますよね。
だから、どんな分野でも、楽しんで思いっきりチャレンジするといった度胸があれば、いまも大きな業績を上げることはできると僕は思ってます。山村先生の言ったとおり、「核心をついた研究はかならず人に役立つ」とね。
米田 チャレンジをしてくれる若い人たちがもっと現れたらいいというのは、私も本当に思っているところです。
いまはコロナ禍で余計にむずかしくなってしまいましたが、若い人たちが留学するというのもチャレンジの一つですし、次世代の日本のライフサイエンスには重要なことだと思っています。
岸本 コロナの前から、すでに日本からの留学者はすくなくなっていたのですよね。
米田 はい、減っていました。
岸本 たしかに、僕が留学した1970年はまだ1ドル360円の時代で、研究設備も海外のほうが優れているような時代でした。いまは、日本の研究設備もとても整っていて、博士研究員などの給与も日本のほうが高いくらいになった。だから、留学する必要性がどこにも見当たらないと考える人もいるでしょうね。
でも、それは僕はちがうと思うんです。人と人が知り合うということはものすごく大事なことであり、世界中に知り合いができることはこの上ないと思うからです。サイエンスもそうですが、芸術もほかの文化であっても、みな人が人を評価するものです。
米田 岸本先生の言われるとおり、人のつながりは大事だから、できるかぎり留学したほうがよいと若い研究者には言ってきました。ただ、それを聞いて本当に海外に行った人はすくないですね。
基礎も応用も糧に「人を育てる」
米田 最後に、私から千里ライフサイエンス振興財団への希望を岸本先生に伝えさせていただきます。岸本先生のIL-6からアクテムラまでの研究の歩みなどを題材にして、若い研究者が課題を見つけながらライフサイエンスを本当に理解し、育っていくような場をつくっていただければというのが私からのお願いです。岸本先生も、山村先生から「人を育てる」ことの大切さを教わったとお話がありました。たとえばですが、「岸本ライフサイエンス塾」のようなかたちで、若い研究者をつぎつぎ輩出するような場が実現するといいなと、本当に思っています。
岸本 まぁ、僕も81歳になったのでね(笑)。ただ、僕も主任研究者をさせてもらっている大阪大学免疫学フロンティア研究センター(IFReC)からは、次々と有望な研究者が現れてきているとは感じますよ。さらにその下の世代も育ってきている気はします。
たしかに、IL-6やアクテムラが関係することでも、「なぜそういうことになるのか」といった未解明のことは、まだまだ多くあると思います。「なぜリウマチ患者さんはリウマチになるのか」といったことも、まだほとんどわかっていませんから。米田先生が、僕の研究を題材にというのは、そういったことでしょうかね。
米田 そのとおりです。岸本先生のご研究のように、基礎研究から臨床研究までたどり着いて、またそこから基礎研究に戻ってくるような研究のサイクルがうまく回ると、これからのライフサイエンスはもっと発展していくだろうなと、強く思っています。
今日はどうもありがとうございました。
岸本 こちらこそ、ありがとうございました。
EYES
免疫をめぐる基礎研究と治療応用 IL-6の発見とアクテムラの開発で実現
新型コロナウイルス感染症における
肺炎重症化のしくみ解明にも寄与
自分の体外からやってきたウイルスや毒物などの異物、また体内に生じたがんなどの不要なものを非自己と識別し、排除しようとする生体防御のしくみは「免疫」として知られています。いまでは「リンパ球の一種のT細胞が、おなじくリンパ球のB細胞に抗体をつくらせ、非自己である抗原を排除しようとする」といった免疫のしくみはよく知られたものとなりました。けれども、こうした知識が得られたのは、研究者の発見や解明の積み重ねがあったからこそです。
前ページまでの対談記事にあるとおり、千里ライフサイエンス振興財団理事長の岸本忠三氏は、そうした免疫系のしくみの解明、さらには免疫が関わる病気の治療薬の開発に取り組んできました。
大阪大学で免疫研究を進めるなかで岸本氏は、「B細胞が抗体をつくるにはT細胞からなんらかの因子が出ているはず」と考え、その因子を突き止めようとしました。そして、米国ジョンズ・ホプキンス大学での留学を経て、複数の因子のうちの一つ「インターロイキン-6」(IL-6:Interleukin 6)の遺伝子を発見し、1986年に『ネイチャー』に発表しました。その後も岸本氏は、このIL-6をめぐる基本的なしくみの解明に専心します。IL-6の受容体の同定、さらにはシグナル伝達のしくみの解明へと突き進みました。
研究者であるとともに内科医として患者の診療にも当たってきた岸本氏は、IL-6と病気の関係性にも注目し、解明していきます。免疫がもとで生じる炎症反応を示す患者では、IL-6を大量に放出する細胞があることを見出しました。さらに、原因不明だった関節リウマチについても、IL-6のシグナル異常で関節炎が発症することを見つけるなどしました。
こうした成果から誕生したのが医薬品「アクテムラ」(一般名トシリズマブ)です。IL-6の作用を阻害するはたらきをもち、日本では世界に先駆けて2005年に免疫系の難病であるキャッスルマン病の治療薬として発売されました。その後も、関節リウマチなどの免疫関連の適応症への承認が続きました。最近でも2019年3月に、がん免疫治療法として注目されるCAR-T細胞輸注療法に伴う副作用のひとつ「サイトカイン放出症候群」(CRS:Cytokine Release Syndrome)に対してアクテムラの適用が拡大されるなどしています。2020年現在、関節リウマチなど免疫関連の計8つの適応症に対して点滴静脈注射製剤または皮下注射製剤の承認があり、世界110か国以上で承認されるに至っています。
さらに、世界的に流行している新型コロナウイルス感染症(COVID-19:Corona Virus Disease 2019)をめぐっても成果が上がっています。2020年8月21日、岸本氏ら大阪大学免疫学フロンティア研究センター(iFReC)免疫機能統御学のチームは、COVID-19における肺炎重症化のしくみの一部を解明したことを米国の科学誌『PNAS』に報告。感染症早期にIL-6が血中に増加し、IL-6が血管からプラスミノーゲン活性化抑制因子(PAI-1:Plasminogen Activator Inhibitor-1)という血液凝固促進因子を放出し、これにより肺などの臓器で血栓ができ、血管から液性成分が漏出することで肺炎が重症化するといったしくみを明らかにしました。さらに同論文では、アクテムラによってIL-6上昇期におけるPAI-1の産生を抑えることが、重症COVID-19患者への有効な治療になることも示唆しています。COVID-19関連治療薬としてアクテムラが広く使われる期待がもたれています。
免疫の基本的なしくみを解明するという岸本氏の一貫した研究の進め方が、免疫の精緻なしくみの知見に結びつき、さらに創薬などの医療応用にもつながっているわけです。岸本氏の研究ストーリーは、基礎研究と応用研究の結びつきを示すモデルともいえます。